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水ようかん的やさしさ

「やさしい人になりたいんです。」
と彼は言った。
「今だからできる経験をたくさんしたい。その分だけやさしくなれたら。」

 彼に初めて会ったのは動物園だった。とあるイベントが動物園で開催され、そこに二人ともお手伝いとして参加していた。こういう自発的な場所には価値観が似ている人が集まるので彼とも何か共通点があるだろうと思っていたが、案の定はじめましてから数分後にはアフリカの話をしていた。彼は学生ながらウガンダのコーヒー農家さんからお豆を仕入れて日本で販売するという事業をしていたらしく、その行動力とたんぽぽのような雰囲気のアンバランスさにすぐに興味を持った。なぜウガンダだったのか、どうやってコーヒー豆に行き着いたのか、これからどうしていくのか、好奇心の赴くままに彼を質問攻めにしてしまったが、嫌な顔せず一つ一つ丁寧に答えてくれた。
 その事業自体は中断してしまったものの、思いを実行に移したというだけで声を大きくして語れそうだが、彼はむしろ恥ずかしげに必要な分だけを言葉にしていた。とてもやわらかくニュートラルで、「ソ」の音がする彼との会話はとても心地よかった。

 すっかり意気投合し、大阪でスーダン料理を食べられるお店があるというので後日連れて行ってもらうことになった。

 あっという間に3週間が過ぎ、軽やかだった風はいつの間にやら執拗な重さを纏っていた。季節が過ぎても相変わらずたんぽぽのような彼と挨拶を交わし、目的のお店へと向かった。入ると底抜けに明るい女性がせっせと準備に勤しんでいた。テーブルにこしかけ、数分後にはモンゴルの話をしていた。国境を越えがちである。しばらくして運ばれてきたスーダンの伝統的朝ごはんは、どこか親近感があった。ゲシュム島の海が脳裏に浮かぶ。グラーサという分厚いクレープのようなもの、フール(そら豆のスパイス煮)、サラダローブ(キュウリののヨーグルトサラダ)、サラダダクワ(トマトのピーナッツバターサラダ)など、爽やかなおかずを少しずつグラーサと合わせて食べる。いただきますをして11時の朝ごはんが始まった。

 なぜそんな話になったのか全く覚えていないが、片手にグラーサを握りしめた彼から放たれた「やさしい人になりたい」という言葉が、今も心を掴んで離さない。経験と思考がその人となりを作るが、その向かう先はさまざまだ。広がり続ける宇宙のような受容性であったり、城塞のような堅固さであったり、膨らみ続けるエゴであったり。彼の場合は「やさしさ」であった。つまり彼は、やさしくあることが難しいということを知っている人だった。自分自身を知り、何かに依存せずとも自己存在を肯定できる強さを身につけ、相手が大事にしているものに気がつき、それを同じくらい大事にできてはじめて人に優しくなれる。

 彼がアフリカで見てきた景色、嗅いだにおい、食べたもの、触れたひとの体温、心を揺さぶった数限りない現実、そういった全てのものが彼を強くしたんだろう。十分過ぎるほどやさしい彼は、この先一体どこまで行くんだろうかと、アワビを見つめるような眼差しで見つめてしまった。

 そんな彼がお土産といって「夏の花」をくれた。色とりどりの水ようかんだった。前に和菓子の季節感が好きだと言ったのを覚えてくれていたのだ。帰りに抹茶を買って、冷やして食べた。多忙すぎて味わう暇もなかった初夏をプレゼントしくれたこと以上のやさしさがこの世に存在するだろうか。やさしいって、こういうことだよと夏の花が囁く。ぷるぷるの水ようかんをフォークの腹で撫でながらそんなことを思った。


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