<あいだ>を開く レンマの地平

<あいだ>を開く レンマの地平   木岡伸夫 2013年

第1章 ロゴスからレンマへ ―東洋的伝統との出会い
・山内得立 テトラレンマ
1:A(肯定)
2:not A(否定)
3:Aでもなくnot Aでもない(肯定でもなく否定でもない)
4:Aでもありnot Aでもある(肯定でもあり否定でもない)
中とはただ二つのものの間にあることをではなく、それが二つのもののいずれでもなく、そしてそれ故にそれらの孰(いず)れでもあり得ることを意味する。
「対立」ではなく「差異」の視点に立つ。

ロゴス的な二者択一では選ばれるべきはAとnot Aのいずれかである。
レンマ的論理における二重否定は、肯定に対立する否定をさらに否定することで、日常的次元における否定そのものを超える。
肯定か否定かという二値論理的な対立そのものを超える。

第2章 中の論理 ―大乗仏教の視圏
三つの古代文明地域―地中海世界、インド、中国―には、ほぼ時を同じくして偉大な三人の思想家(キリスト、仏陀、孔子)が現れた。
西洋世界は古代ギリシアにおいて、ユークリッド幾何学とアリストテレスの形式論理学に代表される厳密な「論証法」を確立した。
インドは「問答法」、中国は「修辞法」。
「中」の意味を明らかにしたのは大乗仏教の中観派を代表する龍樹であり、その『中論』において<中の論理>が展開されている。それは、大乗仏教の根幹をなす「空の論理」の一つの表れにほかならない。

すべての事物が縁起的関係においてあるということは、それ自体としての本質(自性じしょう)をもたない、すなわち空である、ということである。
「一つの事物がそこに存在するのはそれ自らによってではなく、他に依って、他との関係に於て存在すると考えるのが中論の立場であった。」(山内)

ロゴスの必然性が成り立つことは、因と果がそれぞれ独立であることを前提する。つまり、原因と結果が、それぞれの自性をもつことを必須の条件とする。ところが縁起は、一は他によって、他は一を待ってある、という相依相待の関係を意味するから、それぞれの自性は成り立たない。

第3章 即非の論理 ―東西の<綜合>へ
「非」が「否」や「不」ではないことを、次の一例で考えてみよう。「非人情」が「不人情」にはない価値的なニュアンスをもつのは、「非」のもつある種の肯定性による。「非」の否定は単なる否定ではなく、否定を否定する絶対的否定である。したがって、「非人情」は、単純な人情の否定ではなく、人情の肯否を超える立場、いうならばある種の超俗的境地の開けを意味する。
東洋の大乗仏教的な「即非の論理」において、有と無は、そこから両者が分立する「非」の地平を根拠とする。存在と非存在、有と無の対立関係では、相対的無しか考えられないが、肯否の対立を超えた「非」の地平は「絶対無」を意味する。
存在の根拠を表す「よって」には、「因って」(原因)、「依って」(縁起)、「由って」(理由)の三種が区別される。自然科学の因果関係は、第一の「因って」を焦点化し、物事の「原因」を追究する。これに対して、大乗仏教の空観では、第二の「依って」が表わす一と他との相依相待、つまり「縁起」の関係が重く見られた。ところが『随眠の哲学』では、第三の「由って」が表す「理由」が問題とされるに至り、新たに導入された「存在の論理」において、存在の根拠が存在でも非存在でもなく、それらの根源たる「非」、絶対無にあることが明らかにされた。

第4章 なぜ<あいだ>が重要なのか
<あいだ>に関して言えば、<もの>と<こころ>には中間が存在しないというのが「正しい」ということではなく、そういう中間的なものを考えない態度が、技術的実践に必要不可欠であったというだけのことである。<あいだ>を考えることよりも、考えないことの方に有益さがある。このことが、哲学的二元論のロゴスを近代科学の原理たらしめた根本的理由である。
山内得立によれば、この世界はさまざまな「差異」に満ちている。彼はその差異を、対立や矛盾ではなく、どこまでも差異としてとらえる立場をとろうとする。彼のイメージする現象学は、世界を「差異」の相のもとに眺める理論的態度を要請する考え方である。

ロゴス的二元論における「環境」は、人間主体に対立する自然、中心たる人間との<あいだ>を有しない外的事物である。
環境が人間主体を含み、それと一体であるということは、そこにおいて人が他の人々と交わって人間社会を形成することである。こうした意味での人間化され主体化された環境は、自然であるとともに、人間同士のつながり、つまり社会でなければならない。和辻哲郎は、こうした人間的・主体的自然を、二元論における対象としての自然環境から区別して、「風土」と呼んだ。
自己の身体が排他的に占める位置を離れ、他人との間柄を演じる場所に立つことによって、「人間」という語が表わすような人と人の<あいだ>が具体化する。
出会いに先行して<あいだ>が存在するというのではなく、出会いそのものが<あいだ>を開く、と考えればどうだろうか。

人は前近代における共同体、コミュニティから、個人として自立すると同時に、自然の技術的支配・操作をつうじて、自然とは別の次元に人間社会の発展を実現する。ここには、対共同体、対自然という二つの次元における自立の重なりが認められる。
ここから生じた環境破壊の根は、人間による自然支配と人間による人間支配の二重構造にある。問題の深刻さは、この二つの支配が別々ではなく、たがいに重なり合い強化し合って事態が進行することから生じている。

第5章 生きたものの論理 ―西田幾多郎の<生の論理学>
近代の二元論では、環境と主体は明確に区別され対立する。一方、西田の立場では、環境において主体が成立するとともに、主体の行為によって環境が形成される。大乗仏教的な見地からすれば、この考えは、主体と環境のあいだに「此あるとき彼あり」という縁起的な関係「相依相待」の関係を認めるものである。環境と人間には、主客対立を超えた「不一不異」のレンマ的関係がある。西田が「表現的世界」と呼ぶ環境は、「意味の世界」であり、さまざまな「彼」の意味を「私」が読み取って実践することで、こんどは自分が「彼」となって環境の意味をつくっていく。すなわち環境が主体をつくるとともに、主体が環境をつくる。主体は環境に支配されながらも、環境に働きかけ環境をつくりかえる自由をもつ。

西田哲学以後の日本哲学を「弁証法」の呪縛から解き放つことが、山内得立の自らに課した役目であり、彼はその目的に沿って、弁証法がその一角を占める「ロゴス的論理」とは異なる「レンマ的論理」の存在意義を明らかにした。

第6章 反ロゴスの「論理」
「イメージは少なくともわれわれを具体的なもののうちにとどめておくという長所をもつ。どんなイメージも、一つでは持続の直観にとって代わることはできないが、非常に違う種類の事物から借りてきたさまざまなイメージをたくさんもってくれば、それらのものの作用を集中することによって、意識をある一定の直観が捉えられる点に正確に向けることができる。」  ベルクソン『哲学入門』
ベルクソンにおける世界認識は、<直観―イメージ―概念>の三水準からなる。
ベルクソンのイメージ論は、弁証法に訴えることなく、存在の中間的あり方を具体化する。彼が身を置くのは、概念的分析による説明ではなく、メタファによるイメージを提示する<語り>の立場である。

第7章 通態性 ―ベルク風土学における<あいだ>
独自の環境哲学を体系化したベルクが、自身の風土学(メゾロジー)の着想を得たのは、和辻哲郎『風土』からであった。
「人間存在の根本契機」としての風土性を、個人性と社会性という異なる二つのモーメントのダイナミックな統合と理解するベルク。彼はここから、主観(主体)と客観(客体)、主語的なものと述語的なもの、などとして対立する二つの契機を統一する「通態性」の立場を説明する。「通態性」とは、たがいに還元不能なものとされてきた<主観―客観>、<個人―集団>、<自然―文化>といった二元対立の両極を往き来するあり方であり、ベルク風土学が最初期に確立した最重要の概念装置である。

第8章 人間存在の二重構造 ―和辻哲郎における「空の論理」
和辻が構想したのは、「人間の学としての倫理学」である。その「人間」の概念を、西洋の人間学が前提する「個人」から峻別して、個であるとともに全体(社会)でもある二重的な存在の構造としてとらえることにより、個人主義的原理に立脚する西洋の倫理学とは立場を異にする、和辻倫理学の体系が形づくられた。
「空の論理」における絶対否定の運動が、「個と全体の弁証法」に読み替えられた結果、和辻倫理学における倫理の成立次元は、国家共同体と個人の<あいだ>に限定されることとなった。
『風土としての地球』という訳書の題名が物語るとおり、ベルクの場合、「風土」は国家によって閉じられるものとは考えられていない。

第9章 アナロギアと<形の倫理> ―<あいだ>を開く語りへ
『ロゴスとレンマ』の「序」で述べられるように、山内が目標としたのは「東西論理思想の綜合」であった。
① 現象学
 弁証法は形式論理の矛盾律を逆転する。しかし、形式論理と同じく弁証法も、存在と非存在、有と無の対立を前提する。これに対して、存在は差異の世界であり、混合の世界であると考える山内は、そうした差異の世界、混合の世界をとらえる論理を「アナロギアの論理」と呼んだ。
その探究を始めるに当たり、西洋哲学における「差異の論理」として注目したのが現象学であった。「現象学は存在の差異的形態を対立的関係に於て研究するものである。現象学は先づ種々なる現象を現実の形態に於て見ようとする。現象は様々なる程度に於て種々なる相の中に現象するであろう。現象学とは此等の種々なる現象をそのままに見、さうして叙述しようとするものである」
② 即の論理
存在の関係を対立・矛盾ではなく差異とする現象学的見方から、一貫した弁証法批判をつうじて、存在・非存在、肯定・否定がそのまま両立する「即」の存在論的位相を確保する、「レンマ的論理」への着眼が生じる。
③ 即非の論理
「即の論理」以後の晩年、遺著『随眠の哲学』において、山内は西洋形而上学を貫く存在の根拠への視線に同一化し、「~によって」で表される存在の根拠としての「理由」が「無」である、とする「故の論理」を導入する。これによって成立するのが、存在と非存在、肯定と否定の相即する「即」は、そのままそれらの区別が成立する根拠としての「非」の地平である、とする「即非の論理」である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?