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米ソ首脳会談

 1989年に、マルタ共和国の存在が世界中に広められた。この国はマルタ島という佐渡島の半分程度の島国である。その年の秋も終わろうとしている頃、世界中の目がこの島に向けられた。
 そこでは20世紀最大のイベントが持たれようとしていたのである。アメリカのブッシュ大統領(父)と、ソビエト連邦のゴルバチョフ書記長との会談が開かれていたからである。その目的が世界平和に深くかかわっていたからであることは言うまでもない。その結果に世界がかたずをのんで見守っていたのも無理はない。
 ベルリンの壁が崩壊したのもこの年であった。その壁は東ヨーロッパと西ヨーロッパとの対立の象徴的存在であった。その歴史的事実を受けて、鉄のカーテンの向こうとこちらの和解成立へ向けたこの2人の政治家の会談に、世界中の人々が期待と祈りを込めて見つめていたのである。
 島の入り江に設けられたヨットでの会見場に入る両巨頭の姿をテレビ画面を通して見つめる。ヨットの中で何が話し合われているのかまんじりともせずにじっと待つ。その間になされるテレビ局の解説。専門家の意見や見通し。うかがい知れる明るい見通し。予想される困難な解決の道。長い間の不信を払拭できるのかという疑問。確信する平和への確実な足音。
 私は自分が中学生の頃、父と初めて政治について語った時のやり取りを何故かしっかりと覚えている。
 当時の世界はアメリカを代表とする西側と、ソ連を代表とする東側とにはっきりと分けられていた。私にはそこのところがよく分からない。
自分が平和であってほしいと思っていると同じように、世界のリーダーたちも世界平和を願っていると信じ切っていたからなのだろう。その平和を志向するのに意見の対立があるということが理解できていなかったのである。
 そこで私は父にこう言った。私としてはとてもまじめに考え抜いてのことであった。
 「アメリカとかソ連の偉い人たちは、自分のことしか考えていないんだね」
 これが私が政治について初めて口にした発言だ。
 「当たり前だよ」
 私が意識して聞いた質問に対する父の政治についての反応だった。それは短く、続きのない反応だった。私の心の中にやりきれない思いを積み残した言葉だった。心の中にずしんと重くのさばり続けることになった。「当たり前」の意味を探ろうとしても「当たり前」以外の意味を思いつくことはなかった。
 ブッシュ大統領(パパブッシュ)とゴルバチョフ書記長の会談が続いている間、私は久しぶりにこの父と子の短い会話を思い出していた。本当に「当たり前」なのだろうかと自問してみた。ふとこの二人に限ってそんなことはないと思いたくなった。それは私自身の願いから出たものである。
 会見場から出てくる2人の姿には安堵の雰囲気が満ちていた。その雰囲気は画面を通して世界中の人々に伝染していった。私もその一人であった。
 お互いの言葉は全く異なっている。その言葉を仲介する人がいて、お互いの意見を交換するのである。仲介者の重要性は言を待つまでもないが、異なる言語を発する2人の人物の平和への志向が事の勝負をつけることになる。
 東側と西側との氷解の時は訪れた。今やソビエト連邦は崩壊し、東ヨーロッパを牛耳ってきたからと言って、果たしてこの2人は世界のために握手をしたのだろうか、との疑問は残っている。父が言った「当たり前」という言葉はここでも生きていたのかもしれない。ただ単に、両国の利害がたまたま一致しただけなのかもしれない。2人の首脳は世界平和をかざしながら己の利害から出た結論を「当たり前」に処理しただけなのだろう。
 神がバベルの塔で人々の言葉を混乱させて以来、私たち人類は言葉が混乱したのと同時に、心までもが混乱の中に入ってしまったのだ。お互いの心が読めず、お互いの心の理解を拒み、お互いの心を責め、お互いの心から喜びが失われてきたのかもしれない。それは同じ言葉を話している時にも現れ続けてきた現象だ。自分のことのみを「当たり前」のようにして追及するときに、言葉は同じでも心はかけ離れたものとなってしまう悲しさを私たちは経験している。
 私たちの心が開かれない時に読む聖書は、いつの間にか外国語で書かれた聖書のように感じる。前の日までは確かに自分の言葉で書かれていると思っていたのに、読んでも読んでも心に入ってこないことに苛立つ。
 「十字架の言葉は、ほろんでいくものにとっては愚かなものですが、わたしたち救われるものには神の力です」(コリントのイントへの手紙一 1:18)
 私たちの心のチャンネルが神のチャンネルと一つになる時に、聖書の言葉は私たちに生きる方向を示してくれる。チャンネルが合わない時、それはチンプンカンプンという表現となる。
 
 追記:これを文字に打ち込みながら、現在のロシアとウクライナの問題が頭から離れない。ロシアの大統領はウクライナの人々がどんなに苦しみ、悲しみ、絶望の淵に追いやられ、将来どころか今を生きることすらできない状態に追いやっていることに気が付いていないはずはない。全世界から非難されても、持論を展開してその犯罪が無いかのように強弁している。しかし、心のどこかで自分のしていることの理不尽さに気が付いているはずだ。その心を変えることが出来るのは、誰なのだろうか。速やかな戦争終結を祈るばかりである。


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