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おやじの裏側 iv(4. おやじの迷言)

間違えて、「削除」してしまったので、復元いたしました

オレのおやじは足を引きずって歩く。

聞いたところによると、学生時代に柔道の試合で投げられて右だったか左だったか忘れたが、半身不随の危機に直面したらしい。

そのおかげで、戦時中の徴兵検査の時に、合格にならなかった、という話を聞いている。勿論、第2次世界大戦の時の話だ。

当時は既に牧師になっていた。

それどころか、戦争に反対の立場の教会に属していたようだ。

子供の頃に聞いた話なので、詳細は分からない。

S市で家を借りて礼拝をしていたら、憲兵が入り口に立って、入る信徒をチェックしていた、という話もおやじから聞いたことがある。

おやじが憲兵に連れていかれたこともあったそうだ。

当時は、おやじが属していた教会のグループの牧師や信徒が牢屋に入れられて、獄死した方もいたとのことだ。

そういうわけで、おやじは牧師としての仕事ができなくなり、一般的な仕事についていたようだ。

あまり詳しく書くと、折角の匿名記事が、素顔を見せることになるから書かないようにしている。

オレがなぜこんな話を書いたかというと、オレの家になぜお客さんが多かったかが分かるからだ。
仕事仲間や、教会関係の友人知人などがSG荘に入れ替わり立ち代わり姿を見せていたのだ。

この時は、終戦直後、疎開先のF市から戻ってからのことだ。

S市は米軍の空爆で多くの地域が焼け野原になってしまったそうだ。一旦S市に戻ったのかどうか詳細は知らない。隣接する市に引っ越したことになる。

オレの子供時代の記憶は、この頃から少しずつ蓄えられたものだ。

来客は、オレたち子供にとっては大歓迎なのだ。

おやじはオレたち子供を、来客を理由に追い出すようなことはほとんどなかった。

いろいろな客が来た。

ある時は、夫婦がやってきた。勿論オレの知らない人たちだ。その後も会った記憶がない。
お土産に自分で捕まえた山鳥を持ってきてくれた。その山鳥は、その日の夕食となった。客が山で散弾銃で撃って収穫したものだ。

夕食に出てきた山鳥料理は、おいしかった。
食糧難を忘れさせる味だった。

食べながら口から出てくるのは、散弾銃のタマだった。それぞれの口から鉛でできたタマがえり分けられて口から出てきた。
  
大抵の客はお菓子が土産だった。子供がたくさんいることは周知の事実だったからだ。

客がいるときに、遊びに行かずに家にいるのはラッキーだ。大人が話をしている間に、客がお菓子を勧めてくれるからだ。

食糧難はオレたち家族だけではない。日本中が食糧難の時代だ。

客の中には、自分も一緒になってお土産を食べる人たちもいた。
子供にとっては「はずれ」みたいなものだ。

帰る頃になって、残ったお菓子のお土産を持ち帰る人もいた。そんな時はオレたち子供はがっかりする。

大抵の客の顔を覚えていない。来た時には知らない人が多かった。きっと以前勤めていた仕事の同僚だったのだろう。

その日は突然やってきた。(というほど、オレにとって劇的な日だったわけではない)

問題のその日は、おやじと一緒に客の話を聞いていた子供はオレだけだった。

つまり、オレはおやじと客の3人で部屋にいるのだ。

「長男さんは将来が楽しみですね。いつもきちんとして、しっかりしておられる」

(本当は長男さんなんて言うはずがない。客は本人の名前に「くん」か「ちゃん」をつけて言った。)

オレはそれを聞きながら、(あ~、やっぱりね)と心の中で思っていた。オレは自分のことをそんな風に言われるわけがないということは、子供心に分かっていた。言われるような生活態度ではないことを十分自覚していたからだ。親の前だけおとなしくしているような子供ではなかったのだ。

「いや、ここにいるこの子は、将来大物になると思っているんですよ」

(ここでもを入れなければいけない。おやじが「ここにいるこの子は」などと他人行儀に言うわけがない。おやじが言ったのは「ここにいる○○は」だ。ちゃんとオレの名前で言ったのだ。勿論呼び捨てだ)

オレはビックリした。
おやじがそんなことを思っているなど、考えたこともなかったからだ。

今にして思えば、おやじは「はずれ」だった。

しかし、オレの心の中に、おやじのこの言葉は一石を投じたことになる。

その後のオレの人生の中で、おやじのこの言葉とその時のオレたち3人の風景がセットで何度も浮かんできたのだ。

言葉通りにはならなかったが、オレの人生の節目節目で姿を現す迷言となった。

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