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大腸がんステージ3を乗り越えて。病気の最中にいたあの時の、私の気持ち

2018-09-28の記録から。

いつか来る日のために書きとめておいた、あの当時の気持ち。2014年5月に書いたものを経過年数だけ追記し、そのまま記載します。

多くの人には伝えられていないし本当は話すべきでないのかもしれないけれど、ちょっとした想いがあって、この話を公表しようと思う。私が初めて死を意識した衝撃のガン告知は、2014/3/18、今から4年半前のことだ(2018年当時の記載)。ステージ3aの進行大腸癌、切り取ったリンパ節にも転移があり、五年生存率は70%。五年後に三割の確率でこの世にいないかもしれないと思った時にはわりと愕然としたけれど、なんとか今もまだ、再発なしに元気に生きている。最初の始まりは2月末の謎の貧血と腹痛で、色々検査した結果、「内視鏡で黒に近いグレーな細胞が見つかりました。手術した方がいいですね。」とオブラートに日本人医師に告げられたあの日が3/11。漠然と不安に駆られ、仕事後疲れ顔で駆けつけてくれた友人たちに申し訳ないと思いながら、「皆も健康診断はきちんと行ってね」「入院中暇だからお見舞いに来てね」なんて言いながら、楽しくビールを飲んだ。あの時は本当に、自分がガンだなんて思いもしなかった。3/18にシンガポールの大腸外科の専門医に会いに行く。そこで「自分の病気知っているだろう?Cancerだよ。」とストレートに言われ呆然とした。見せられた細胞診断の結果には「Moderately Differentiated adenocarcinoma(中分化腺がん)」と確かに記載がある。え?私ガン?事態が呑み込めないまま手術の日取りを決め、何か質問はないかと言われ、「手術しても、子供は自然分娩で産めますか」と予定もないのに頓珍漢な質問をしたりした。その日のうちにCTスキャンや血液検査をして、どうやら他の臓器に転移が見られないことはわかってホッとしたけれど、現実でないような、ぼーっとした気持ちで日中過ごす。Orchard GatewayのDean & Delucaでチョコレートアイスを食べ今後について考えながら、友人からのゴルフ手配のメッセージに「いつもありがとう」と返すと、「何、殊勝なこと言って。早まるなよ!」と返ってきて、あまりにタイムリーなので笑ってしまった。早まるつもりは無かったけど、早まる事になるのかもしれない、と。夜は誰かに会いたかくて少し声をかけたけれど、実際に会うと泣いてしまいそうな事に気づいてやめる。そして、一人で泣いた。死ぬかもしれないという事より、こんな時に一人ぼっちなのが何より辛くて、この日から数日は、自分で自分を抱きしめながら眠りについた。近しい友人に話をしたかったけれど良い話ではないし、この歳でガンだなんて皆も動揺しちゃうだろうし、限られた人にだけ伝えて支えてもらった。この時期にチャットや電話で励ましてくれた友人たちには、本当に感謝している。タイミングを逃して病名は言えなかったけど、病気発覚の時に飲んでくれた友人たちも。皆がいてくれなければ、きっと乗り越えられなかったと思う。この頃の心情はわりと不思議で、死ぬことについては全然怖くはなかった。もともと“Live for the moment”を座右の銘に掲げていて、やりたいことをやりたいようにやって生きてきた。目いっぱい遊んでたくさん旅して楽しく働いて、今死んでも何の後悔も無いなと思ったし、今でも、これってすごいことだと思っている。もちろん結婚や出産をしていない事はある種の後悔ではあるけれど、そうなったらまた別の後悔が生まれていたはずだし。明日死んでも何の未練も無い、という気持ちと、私の周りには本当にいい人ばかりいるな、という冷静で平穏な思いに包まれていた。だから死ぬことよりも、病気を抱えてこれから生きていくことを考えると、そっちの方が怖いし辛かった。

手術には日本から来た母親が立ち会うことになった。自分の手術よりも、英語もわからず異国で不安になるだろう母が心配だったので、迷惑かけるのは承知で、仲良しの友人に頼んで手術に立ち会ってもらうことにした。彼女にも本当に感謝している。麻酔をかける前にも「彩さん大丈夫!絶対イケメンの夢見るから!」と励ましてくれた事も、多分一生忘れない。笑 手術は二時間程だった。初めて入った手術室には10人以上人がいて、緊張を解きほぐそうと、「シンガポールで一番美味しい日本食屋は?」とか、麻酔医師がくだらない質問を続けていて、そこで記憶が途切れている。終わってからすぐに目を覚まされ、病室に戻ってわりとベラベラ喋っていたのには自分でも驚いた。最初の数日はそこそこきつかったけど、最先端のロボットによる腹腔鏡手術だったので痛みはさほどひどくなかったし、回復も早かった。日本では二週間の入院が必要と言われる手術を丸三日で退院し、仕事にも術後二週間で復帰した。

 告知からわりと平然と過ごしてきた自分ではあったけれど、一番のショックは病理検査の結果だった。術後一週間での再診で、リンパへの転移が告げられた。切ってしまえば終わると思っていたから、あまり細かい事まで考えていなかった甘い私。リンパ節に転移があったという事は、既に体内のどこかへガン細胞が散らばっている可能性があるという事だ。再発率は25-30%となり、五年生存率は65-70%になる。そして、もし肝臓や肺へ遠隔再発した場合、5年生存率はたったの17%。ここから一か月ほど、私は命の数字に振り回されることになる。この夜はまた泣いた。「数年間も生きられないかもしれない自分と結婚してくれる人なんていない。家族も作れないのなら、生きている意味なんてあるんだろうか」と号泣した。手術の前にも一度だけ大泣きしたことがあって、お腹を切ったらもうビキニを着れなくなるかもしれない、と手術二日前に気付いた時だ。この日はそれまでのメソメソとは違い、幼児のように大声を出して数時間わんわん泣いた。こんな風に、命に係わるこんな時にも、ビキニの事や結婚の事しか考えられない自分に気づいて、ああ、私は女性だったんだ、とひどく思い知らされる。そうして、そんな女性としての自分を大切に生きてこなかったことを、自分自身に詫びたりした。

 しばらく何も考えずにいたかったけれど、そういうわけにもいかなかった。抗がん剤治療の投薬は通常術後4-6週間以内。日本の治療ガイドラインだと、ステージ3aの患者は通常半年の術後化学療法を受ける。幸か不幸かシンガポールで治療を受けたという事で、シンガポール人の外科医には「僕は抗がん剤治療は不要だと思うけれど、再発が無いともいえないし、まだ若いからね」という事で、海外らしく自分で決断することとなる。シンガポールで抗がん剤治療の説明を受け、手術の翌々週にも日本でもセカンドオピニオンを受け、結論としては、抗がん剤治療をすると生存率が7-8%上昇、さらに強いものを併用すると12%ほどになる、との事だった。ただし、全員に効くわけではないし、治療しても再発する人もいる。また、手術だけでも7割ほどの人は完治するので、抗がん剤治療自体がそもそも無駄な人もいる。ただ、副作用はほぼ全員に何らかの形で見られるそうだ。大腸ガンの場合脱毛が無いことがわかってほっとしたけれど(脱毛があるなら絶対にやりたくなかった)、それでも末梢神経の痺れや皮膚の黒ずみ、吐き気などは多くの人に見られるらしい。仕事はある程度続けながら治療は出来ると言われたものの、駐在生活で副作用に耐えながらというのも辛いだろうし、かといって日本に突然帰ったら自分が病気だと周りにばれてしまい、それもそれで精神的に辛い気がする。そして、半年を犠牲にしても、生存率は5年70%から80%近くに上昇するのみ。だけどそれって一般的な数字で、そもそも30代の大腸がん治療実績なんてまともなデータが無いのだから、若いことが吉と出るのか凶と出るのかもわからない。何なの、この数字。悩んで、いろんな闘病ブログも読んでみる。Google検索に“がん”という文字を一体何度打ち込んだだろう。再発して、ああ、抗がん剤治療をしとけばよかったと後悔するのも嫌だ。でも、なんだか治療には抵抗がある。グルグルするけどちっとも答えが出ない。いっそのこと余命半年とかならそれなりの決断ができるのに、と重病の方に失礼なことも考えた。あと数年なのかあと数十年なのか、寿命がわからない中でも、時間の過ごし方は同じになる。治療をするのかしないのか、どうやって生きていくのか。自分の生死が自分の決断にかかっているかもしれないのが、本当に重くて辛かった。また、この時期、両親より先立ってしまうかもしれない親不孝を思うと、それも何より辛かった。孫の顔も見せずに好き勝手生きてきたどころか、先に死ぬのかと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。身体は少しづつ回復してきた時期だったものの、悩んで悩んで、精神的に苦しかった。重ねてになるが、余り食べられないこの時期に食事を共にしてくれた友人たちや、倒れそうな時に肩を貸してくれた友人、どんな決断も応援するよと言ってくれた友人には、言葉にできない感謝をしている。

とりあえず四月中に結論を出そうと、毎日少しづつ考えた。そうこうしているうちに、BBQやピクニックとかシンガポールの日常生活を送る中で、このままの生活を続けたい、という思いが強くなった。抗がん剤をやらない覚悟も無いけれど、やる覚悟もつかない。だから、治療はしないことにしよう。ちゃんと考えぬいたというより、この明るいシンガポールの空気の中で、もう考えられなくなったという方が正しいかもしれない。人生の中でも、最大級の決断だった。その代り、たくさん笑ってたくさん寝て少し健康にも気を遣い、でも、自分らしく生きていくと決めた。ガンと告知されたあの時のように、今死んでも微塵も後悔の無い生活を送るんだ、と。たとえ明日が来なくても、今日が最後の日でもそれでいいと思えるように、精一杯生きていくんだ。ダメ元で恋もする、友人たちと目一杯遊ぶ、仕事も楽しむ。失敗してもいい、生きているからそれが出来る。

病気になった当時、友人の中には「一体どうして、なんで彩なの」と泣いてくれる子もいたけれど、それについて考えて、とある時期から「ああ、私だからだ。私なら大丈夫だから、神様は私を選んだんだ」と思うようになった。私ならこの病気と一緒でも、きっと笑って生きていける、乗り越えられる。だから、結婚したり子供がいる私の友人たちじゃなくてよかった、私でよかった、と心底思えるようになっていた。実際、病気で悩んでいる時も、友人たちに会うときは私はいつも笑っていた。無理して笑ったことは一度もなく、自然に幸せに生きてきたよ。今は思う、病気になってよかったかも。おかげで私はそれまで以上にたくさんの事に感謝できるようになったし、相手が目には見えない何かを抱えているかもしれないと思うだけで、すべての事に寛容になれる。人から見たら少し過剰で気持ち悪いリアクションもしているかもだけれど、誰かに会うたびに「会えてよかった(これが最後かもしれないし)」と、毎回とてつもない喜びを感じられる。何もかも、世界が違って感じられる。神様、皆、ありがとう。私は、身体がくれたサインと生きる事について考えられたこのチャンスを無駄にせず、数年かはたまた数十年か、生きている限り、これからも最高の人生を送るのだ。

周りのもの、全部失うと思ってみると、素敵なもの、かけがえのないもの、たぶんいっぱいあるよ。皆の周りには普通の幸せが溢れているってこと、どうぞ感じて、大切にしてください。そして、健康診断はちゃんと行ってね!私の友人たちや仕事仲間や皆、健康で幸せでいられますように、と心からの祈りを込めて。


2018年の追記
病気を告げると友人や取引先や同僚やいろんな人に気を遣わせるのが怖くてずっと黙っていたけれど、若年性ガンが増えていること、同世代の皆にも気を付けて欲しいから、公表しました。私も大腸癌で血便がありましたが、痔だと思ってました、本気で。だって大腸癌って4-50代以降でなる病気なんだもん。過剰に気にする必要はないけれど、健康には、適度に気を付けて欲しいな。また、これを、身近な方々に、“日々を生きる”ことを考えるきっかけにもしてもらえると幸いです。あと、臓器にもよるけれど、ガンは不治の病ではないから、ひとたび治療を終えたガン患者に対しては、普通に接してもらうといいなと思う。抗がん剤治療を行っていなければ皆と同じ生活が送れるし、いつ死ぬかわからないリスクは、誰しもが常に背負っているのだから。

この文章は、いつか来るその時の為、主に、治療の方向性を決めた2014年5月に書きました。幸い四年半(2018年当時)も無事に過ぎてくれ、95%の再発が起きるという五年間を無事ならほぼ完治に等しいです。それまで何もなく過ごせるといいな。

親しい方々、黙っていたことはごめんなさい。いつも元気な私のままで、変わらず接してもらいたかったから。これからも、こんな私ですが引き続きのお付き合いどうぞよろしくお願いします!ラブユー!☺


更に追記(2024年3月)

生きるか死ぬかと言われたら普通は皆んな生きるを選ぶけど、普通に生きていてどう生きるかと言われたら、簡単に答えがでないのが人生だな、と10年生き延びて思いました。
あの時感じた感謝や寛容も、忘れるのは簡単。人って簡単に変われないのだな、としみじみ思う。

この10年を後悔なく生きたかと言われたら答えはNoになるけど、振り返るだけでは仕方がないのも人生で、これからの10年をどう生きるかを、今自分に問いかけてます。10年後も今これを読む友人の皆さんと繋がっていられますように!というのは確かな願い。:) 

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