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インディゴの気分【FODドラマ】最終話を待つ間に

【旧ブログより】
2019年4月 2日 (火)

城戸よ、なぜ君はそう思ったのか?

ドラマの最終話が待ちきれないので、ドラマ最終話で自分が“腑に落ちたい部分”のことについて書いてみる。

原作で、ずっと気になっている箇所がある。

城戸が、木島のスランプの原因が自分のせいでもあったのかと思う場面だ。城戸のモノローグとして語られるたった一文なのだが、読むたびに、この場所で毎回考えてしまう。初見のときは、

“そうだよ!お前(城戸)のせいだよ!!このバカ!!”と思った。

しかし、何度も読むにつれて、“なぜ城戸はそう思ったのか?”という疑問が湧いてきた。はじめに思っていたのは、城戸は編集者のくせに無神経でそういう機微がわからない鈍感野郎だから。

でもそれでは、この物語の中での城戸のキャラクターとは違う。
(理生かわいさに理性を失って城戸をただの鈍感野郎と認定してしまって申し訳なかった)

なのでそのほかの理由を考えてみる。

まず、理生が城戸と再会して鬼島蓮二郎として再デビューするまで、理生は“書けなかったわけではない”のだと思う。仕事がない、作家としての需要がなくて落ちぶれていただけだったはずなので、本当に一行も書けなくなってしまうようなスランプは『ポルノグラファー』へ至る時期の1度だけだったのではないだろうかと私は考えている。そういう意味では城戸と再会したときの理生は、スランプというより社会人として挫折中と言ったほうが正確かもしれない。

その後、蒲生田先生との出会いを経て、自身の欲望を投影するという方法で官能小説を量産していった。官能小説を書き始めた当初、彼自身の欲望の対象は間違いなく城戸だったわけで、城戸への欲望を作品という形で昇華していったはず。それが、城戸の結婚と時期を同じくして書けなくなっていったのだから、城戸の結婚という事実が無関係であるはずはない。

で、話は戻る。では、なぜ城戸は、「自分のせいでもあったのかなぁ」みたいな寝ぼけたことを言った(思った)のか?

まず、城戸は木島にずっと惚れていると公言するほどのファンだ。端的に言って大ファンだ。著作はすべて読み、影響を受けまくっている。何しろ作家志望だったのに木島のせいで筆を折っているのだから。それに加えて恋愛なのか何なのかよくわからない肉体関係。良くも悪くも常識人の城戸にとっては非日常な日々だったに違いない。

相手を好きすぎると自分の形を保てなくなるという表現がなにかの作品(たぶん『俎上の鯉は…』のたまきちゃんだね)であった。あくまで私の想像だけれど、木島の近くに居過ぎると、おそらく城戸もそうなっていたのではないだろうか。「お前といると自分が嫌になる」と発言したとおり、好きの度合いが大きい方が恋愛においては辛いものだろう。二人の関係において相手に対する気持ちが強いのは間違いなく城戸の方で、恋愛関係だったかさえわからない名前のつきにくい関係においては、更に辛かったのだろうと思う。

でもまあ、木島にコンプレックスを抱いているのは一方的に城戸の方であり、理生にとってはそんなの関係なかったはずで、勝手に一方的に思われて、引かれて、結果的に振り回されたのは理生の方とも言えるわけで…

あるいは、城戸には、作家として恋い焦がれている対象の木島と、目の前にいる欲望の対象としての理生が同一の存在であるという感覚が希薄だったのかもしれない。理生はそういう城戸の幻想を無意識に理解したからこそ、本質を理解されることを放棄して自ら孤独を深めていったのかもしない。

いろいろ考えるとますます答えは出なくなりそうなのだが、シンプルに考えると城戸には、天才作家・木島理生(鬼島蓮二郎)の創作に、自分なんかが影響を与えているわけがないというファンならではのこじらせた買いかぶりがあったのではないだろうか。

好きなのにすがりついたりもせず、歩み寄って理解し合おうとしなかったのは理生で、惚れている相手を、結果的に孤独に追いやったのは城戸で、そういう思い込みや意地の張り合いが結果的に理生の創作を停滞させてしまったのだろうか。

途中から自分でも何を書いているかだんだん意味不明になってきたのだけれど、ドラマの城戸(吉田宗洋さん)、動く城戸を観ていると、その答えが見えてくるのではないだろうかととても期待している。

ドラマ最終話が私のどうでも良い疑問に新たな答えをもたらしてくれると信じて配信を待ちたい。

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