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囀る鳥は羽ばたかない The clouds gatherの感想と原作愛について語りたい(2)ネタバレあり

(1)ではほぼネタバレなしで映画の感想の書いたので、ここから先は映画及び現時点まででの原作ネタバレありの感想及びこの作品への愛を語りたいと思う。

 まず、私がこの作品(原作)にハマってしまった、矢代という人間に魅入られたポイントが、映画化された2巻までの間には3つある。

  1つ目は1巻収録の『漂えど沈まず、されど 鳴きもせず』のラストにある、矢代が初めて自分の孤独を自覚し涙を流す場面。「人間は矛盾でできている」から始まるあのフレーズ。これは全世界が泣いた名シーン。

 2つ目が2巻で矢代が撃たれて意識を失う寸前に自分の過去の走馬灯がよぎるところ。(1つ目に挙げたシーンと重なり映画ではそこがラストシーンとなる)ここで私を完全に落としたセリフ(モノローグ)がコレ

「俺の人生は誰かのせいであってはならない」

  死を目の前にして、走馬灯として見せられるのは酷い思い出ばかり。全部受け入れて、憂うことなく、誰のせいにもせず、納得して自己完結して生きてきたはずなのに、こんなときにこんなものを見せられるなんて…

  1つ目のシーンは映画の予告編でも一部使われていて、映画を見終わったあとに見返すと、哀しくて切なくて大変なことになる。2つ目のシーンは映画第1章のラストシーンでもあり、この絶妙なタイミングで主題歌『モラトリアム』が流れ、観客の涙腺を決壊させる。

 3つ目は、これもまた高校時代のエピソード。矢代が、ドMの自分が影山に欲情していること、影山を泣かせたい、痛めつけたいと思ってしまうことが”自分に生じた歪み”であると自己分析しているシーン。
 これはもう認知の歪み以外の何物でもない。人間として当たり前の感情を持ったことを”歪み”と思ってしまう、それこそが歪み。全部を受け入れて、誰のせいにもせず生きてきた(と思っている)矢代少年に私の全母性が揺さぶられまくってしまった。(あと矢代少年が家に誰もいないのわかっているのに「ただいま~」って言ってるところも相当やばい)

  今挙げた3つのシーンは、どれも矢代のアンバランスさ痛々しさを読者に突き付けてくる。

 この作品の最大の魅力は矢代というキャラクターそのもの。強くて、弱くて、複雑で、単純で、綺麗で、汚くて…極端なアンビバレントさが矢代の魅力だ。影山が百目鬼に語ったように、矢代という人間は自分を客観的に見れないし、他人に共感できない。自分の痛みを痛みとして認識してしまうと生きていけないような過酷な環境で、他者に助けを求めす自己完結して幼少期を過ごしてきたひずみが現在の矢代をカタチ作ってきた。そんな矢代が、百目鬼との出会いで自分自身と自分の本来の感情とどう向き合うようになっていくのかが描かれていく。それも平穏な日常の中ではなく、常に命の危険を伴うような裏世界の中で丁寧に描かれている。こんなものを読まされて(見せられて)この話から目が離せるわけがないだろう。

 私自身、矢代の多面性や複雑怪奇さの中に、自分の一部を投影して読んでしまう事が多く、どうしても矢代に肩入れしてしまうため、百目鬼のキャラクターについてはそこまで深く考えることがなかったのだが、映画を見てからは、百目鬼のキャラクターにも少し興味が出てきた。原作とCDだけだと、百目鬼に対しては正直、毎回「なんだこいつ?」「天然なの?アホなのかな?」「怖い怖い」くらいしか思うところがなくて、特に矢代を守れなかった責任をとって極道でもないのに勝手に指を詰めて、繋げられないとわかっていて影山のところに行くという病み具合も見方によってはほとんどホラーで相当怖いし、ヤバいやつというのは感じていたのだが、映画の百目鬼はとても可愛かった。何なんでしょうこの可愛さは。私自身咀嚼できていないので、百目鬼の可愛さの理由は今後じっくりと考えてみたい。2章はどれだけ可愛くなるのかすごく気になってきた。あと、コレは絶対補足しておきたいことで、CDで矢代が百目鬼が指を詰めたという報告を病床で受けて「なんだその極道みたいな話」とつぶやくところは100万回再生したい。

 裏社会の住人になる理由は人それぞれだけれど、そこにしか居場所がなかったと言う人も多く、幼少期を過ごした環境が大きく影響している。そういった人たちを反社とひとくくりにして断罪して切り捨ててしまえるほど、我々(こっち側)は立派なのだろかと、あっち側とこっち側に明確なラインなどあるのだろうかと裏社会が舞台の物語を読むたびに思う。不幸な子供を一人でも減らしたいと身を粉にして活動している人々がたくさんいても、全てを救うことはできない。助けようとしてくれる他人の目が、差し伸べた手が届く範囲にいるかいないかだけの違い。そこ以外に選択できる道が必ずあると教えてくれる大人やツールがあるかないか、それだけの違いで、人生は大きく変わる。もちろん時代というものもある。現代の子供には一昔前よりも助けを求める手段がある。でも、それすらない子供が多いのもまた事実でやりきれない。
 矢代が高校卒業後フラフラしているところを三角に拾われたとき、三角から家庭環境が原因でメンドくせえモンになったと指摘され、「酔ってんじゃねぇガキが」「こんな仕事してりゃそんな奴腐るほど見てんだよ」と言葉をかけられるシーンがあって、矢代の特殊な家庭環境も、三角のいる裏社会では珍しいものでもなんでもないことがわかる。(そんな世界の住人である三角をしてもメンドくさい矢代の特殊性という問題もある)そう言われたことで、矢代はどう思ったのだろうか?自分が特別ではないと安心したのだろうか?もし仮にこう言われたことによって、自分の歪みを肯定して、自己完結に拍車がかかってしまったとしたら…。
 
 でも結局、矢代を動かしたのは、影山への想いだったのだから、そんな矢代を三角はかわいいと思ってしまったのだろう。というか、天羽の母親感なんなの。

とにかく、
「10代の矢代はかわいい」ということ。以上。

(3)では、他のかわいい男たちについて書きたいと思う。

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