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「別れ」の技術

「別れの季節」というのを肌で感じられていたのは学生の頃までで、大人になった私たちにとっては一年中が別れの機会で満ちあふれている。

昔は「区切り」に近しい意味を持っていた別れが、歳を重ねるにつれて様々な形で押し寄せてくるのには、なかなか慣れることがない。生涯にわたって誰もが幾度となく経験するのに、幼少期に誰かが「別れ」との上手な付き合い方のお手本を教えてくれるわけでもなく、一人ひとりが自分のやり方で乗りこなしていくしかないのは、ずいぶんと難儀だなあと思う。

なんとか乗り越えられたぞ、と安心したのも束の間、また新しい別れは自分の意志とは関係なくやってくる。「季節」というと一年のうちの限定された時期にしか訪れない、希少なものである響きが含まれるけど、一定の年齢に達した私たちには、別れはすっかり日常になってしまっている。

関わりがあった人との今生の別れに加えて、もう会うことはないであろうという心理的な別れ、慣れ親しんだ環境やモノとの別れ。今まで持っていた有形無形のもの(健康、能力、感情、欲、目標…etc.)との別れ。
さらには「持ち得なかったもの」との別れとも対峙しなくてはならない。

何かを達成したり、挑戦したり、手に入れたりする方法については、こちらが望まなくとも周囲から勝手に聞こえてくるけれど、別れの方法については圧倒的に知見が足りておらず、毎度手探りでぎこちなくて、体あたりの受け止め方しかできないのが、なんともアンバランスだ。
別れに慣れきってしまうのも、それはそれでちょっと困るけど。
それでもいったい、「別れ」が上手になるってのはどういうことなんだろう?

最晩年のサルトルは、「老いとは他者である」といったそうである

中井久夫/「つながり」の精神病理、p.225


この言葉を読んで、妙に納得してしまった。歳を重ねるにつれて、自分が自分でなくなっていく、自分の中に「他者」である部分が増えていくこと。
青年期にようやく自我が統一されてきて、やっと「自己」の輪郭がクリアになったかと思えば、次はどんどんと「他者」の部分が増えていくとは。
乗りこなせてきたかと思えば、また振り落とされて、人生ってほんとによく飽きないようにできてるよなあと感心する。

「他者」を自分の意志で自由に操縦することはできないし、どうにかしようとすればするほど自分が苦しくなっていくだけで。だからこそ、諦めることが必要になってくる。
「あきらめ」が、無理なく、悲観的になりすぎずにできるようになることが、歳を重ねていくことで上達していく技術であって、「別れ」が上手にできているように見えるコツなのかもしれない。

それは所有していたものとの別離だけではない。所有しなかったもの、たとえば若い時に果たせなかったことへの悔恨からどう別離するかということもある。もはや果たすことはないであろう多くのことへの別離である。

中井久夫/「つながり」の精神病理、p.230

「持っているもの」との別れは受動的で、嫌でも意識が向くけれど、「持たなかったもの」との別れは、自らが能動的に意識を向けないとやってこない。
この「持たなかったもの」との折り合いの付け方が、老いの成熟度に繋がっているのだろうか。



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