ぼくと作ること

昨夜知り合いのモーリョーさんがツイキャスをしていた。彼が話すことといえば自身の麻雀の勝ち負けに終始するのだが、今回は概ねこのような内容だった。

「俺はSNSをしなくなって久しい。SNSとは洗脳兵器であるからだ。ただ、そうすると世の中に疎くなるのは確かだ。みんな、最近何があったかを教えてくれ。そういえば今日職場に『チョココロナだ』と言って2週間のモラトリアムをもらったので雀荘に行った。雀荘で40代のオッサンに『クソガキ』と言われたのだ。ハハハ、俺もまだ若いな。お前ら、SNSをやめて雀荘に行け。雀荘には青春が詰まっているのだ」

人が老いる時とは、若者の価値観を許容することを諦めたとき。
そんな言葉を聞いたことがある。

モーリョーさんはその許容を諦め、自身の世界で生きていくことに決めた。もちろんその選択を否定する気はない。そのうちtiktokを撮影している若い女性数人に話しかけ
「SNSをやめろ。けしからん。お前らのケツを握力の限り掴んでやる。それ行くぞ?ってアーーー!!腰が…!ウ〜〜」
なんて言って死刑になるであろう。

それはいい。
「さて、自身はどうか」
そう思った。

私はものを書くことで今この場にいると言っても過言とはならないだろう。
しかし、このように自身の想いは皆に見てもらっているものの創作そのものはしていない。

創作とはテーマだ。自身の想いはテーマではない。
テーマに沿ったものを書くことによって創作、「作ること」は成す。
のうのうと生きてるとテーマに行き当たることは然程ない、かといってそういった機会に入っていく気力も情愛もない。
停滞。なるほど、私もこうして老いていくのだ。

しかし不思議だ。
若々しいものは自由を謳歌していると思っていた。
しかしそれは逆で共感しようとしたり、テーマを強制されたり、つまり抑圧されている者の方が発想の若さを保つとは。

「おかしいな」
そう呟くと近頃ふき始めた北風が木々を揺らす。
今日の私にはその草場の陰に、笑うモーリョーさんの顔が見えたような気がした。


「おかしいなーー!!」

あっ。あっ。椎名唯華さんだ。

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