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【再掲】青い毛布(6/12)

もんじゃ焼きのメニューを見ている結衣子は、随分楽しそうだ。

「すごい、種類が結構いっぱいあるよ、私はこの明太チーズもんじゃがいいなぁ、…あ、でも飲み物が先か、信吾は何にする?」 

 結衣子と部屋でしたことのショックから今だ抜け切れていない信吾は、話しかけられてハッとすると、慌ててメニューを開き始める。 

決めかねてグズグズしていると、結衣子は「当店お勧め」と書いてあるメニューを指差して、これもおいしそうだよ?と聞いてきた。

二人が呼ぶより先に店員がすぐに注文を取りに来て、食べ物とビールとカシスソーダを頼んだ。店員は一度店の奥に消えて、飲み物だけをお盆に載せてから、すぐにまたやってきた。

「私お酒飲むの、高校の卒業式の打ち上げ以来なんだよね。それから本当に全然飲んでなくてさ、信吾はよく飲む?大学の飲み会とか結構あるでしょ?」

「…あぁ、うん、結構あるよ。新歓コンパとか、飲みすぎて倒れて救急車に運ばれた人とかもいたし」

その返答を聞いているのか聞いていないのか、結衣子は信吾が頼んだビールを勝手にチビチビと味見して、大人の味ですねぇ、と呟いている。

「お待たせしました」

そうこうしているうちに店員が具材をテーブルに持ってきた。 

比較的年配の男性店員は、手際よく具材を鉄板の上で炒め始め、そのままドーナツ状の土手を作ると、極めて真剣な表情で、今度は汁を土手の中心に流し込み始めた(どうやら彼の中では土手を汁で決壊させるのはご法度らしい)。

そしてしばらくして汁が沸騰してくると、今度は鉄板の上の具材を一気に混ぜ始めた。混ぜる時の店員の気合いの入り具合を見ながら信吾は、おそらくこれが作業の最重要工程なのだろうと思った。

それから結衣子は小さいヘラを使って、出来上がった料理をゆっくりと口に入れた。そして嬉しそうに大きく瞳を見開くと、顔を上げて信吾を一度見る。

どうやら美味しかったらしい。

もう一度料理を口に運ぶと、今度は味を舌の上で分析するみたいに、しばらく口を動かしながら何かを思案していた。

随分と楽しそうに食べるんだな、と思いながら信吾もモンジャ焼きを口に運ぶと、ビクリと体を震わせた。

「…信吾、そういえば猫舌だったよね。ふぅふぅしてあげようか?」

結衣子が少しからかうような口調で言うと、別にこのくらい平気だから、と言いながら信吾は無理にもう一口食べる。

熱さを我慢しすぎたせいで目に涙を浮かべる信吾を見て、結衣子は机の端を手で叩きながら笑った。

しばらくすると、鉄板のせいなのか、空調のせいなのか、それともビールのせいなのか、店内が少し暑くなったような気がして、信吾が近くの窓を開けて風を入れている時に、結衣子の携帯電話が鳴り響いた。

「ごめん、ちょっと電話に出ていい?」

「もちろん、どうぞ」

結衣子は電話の向こうの誰かと話し始める。

「もしもし…、うん…、大丈夫だよ…、うん…今友達と一緒だから…」

信吾は電話をしている結衣子を見ているうちに、そういえば彼女は、今日自分に会っている事を、彼氏には話しているのだろうかという事がふいに気になった。


電話が終わると結衣子は心配そうな信吾に気づいて、お母さんからだよ、時々心配して電話掛けてくるんだ、と少し困ったように笑った。


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結衣子の秘密の恋人である浅野先生は、短い髪のとてもよく似合う、爽やかで魅力的な高校教師だった。

サッカー部の優秀なヘッドコーチでもあり、明るい性格で冗談も上手かったから、見かける時はいつでもたくさんの生徒に囲まれていた。


陸上部とサッカー部の部室が隣同士だったせいで、何度か話しかけられたこともあったけれど、信吾みたいに口数が少なく、大人しいタイプの生徒にも、いつでも人懐こい笑顔で気さくに話しかけてくるような人だった。

結衣子ともすごく仲が良いようで、信吾は部活が休みの日に、帰り道で二人が手を繋いで歩いている所を一度見かけてしまった事があった。

浅野先生と一緒にいる結衣子は、とても幸せそうで、本当に安心しきった表情をしていて、信吾はそれが見たくなかったから、二人に気づかれないうちに素早く横道にそれて、わざわざ遠回りして家まで帰った。

その帰り道で信吾は心の底から結衣子を好きになってしまった事を後悔して、どれだけ忘れようとしても、毎日顔を合わせ続けないといけない自分の日常を呪わしいとさえ思ったりもした。


「…ねぇ結衣子、浅野先生と何かあったの?」

再び食事に戻ろうとする結衣子に、信吾はここに来てようやく気にかけていた事を質問する。

「…え?何かって?」

急に話を切り出された結衣子は固まったように、ヘラの動きをピタリと止める。その反応で、信吾は結衣子が何かを隠している事に気づく。

「そもそもさ、どうしてオレに会いに来たの?」


結衣子の瞳は小刻みに揺らいだ後、ふいに閉じられた。おそらく何か言うべき事を頭の中でまとめている。

「…今日オレ達がしてる事ってさ、やっぱり浮気なの?」

結衣子は目を瞑ったまま、そのまま動かなくなってしまった。話しを聞くタイミングを間違えてしまったかもしれない、と信吾は考えながら、そのまま身動き一つしなくなった結衣子をしばらく見つめていた。

「…さて、ここでクイズです」

一言そう言った後に、結衣子が突然開眼したので、信吾は少しびっくりする。クイズ?話を逸らしたいのだろうか?

「私たちは本日、浮気をしてしまいました。主犯は誘った私、共犯は信吾君、あなたですね。ここで質問です。信吾君は、浮気は罪だと思いますか?」 

法廷での答弁のような口調で、事実をあっさり認めた結衣子に呆気に取られつつも、はい、あの、今になって反省しています、と信吾はかろうじて応える。

「ご名答、日本の外に出たら公的に罰せられる国もたくさんあります。いわゆるカンツウ罪であります。何かが突き抜けるという意味じゃありませんよ。ところが信吾君、その場合、罰せられるのは私だけで、信吾君の浮気は黙認される事がほとんどであります。つまり私は、ギロチンで首をはねられたり、電気椅子で感電死させられたり、毒を盛られてのた打ち回ったりさせられる場合もありますが、信吾君、あなたの方はなんと無罪放免、その理由は何故だか分かりますか?」

結衣子はそこまでを早口でまくしたてると、一度大きく深呼吸をした。どうやら息継ぎせずに一気に喋ったらしい。

「…いいえ、わかりません」

「正解は、あなたが男性だからです。

男性の浮気はどこの国でも社会的に黙認されますが、女性となるとそうはいきません。

何か変じゃないでしょうか?

こんなおかしなルールを作ったのは誰でしょう?

もちろん男性ですね。

権力を握るのも、法律を作るのも、戦争を始めるのも、ほぼ全て男性の仕業です。

そこで男性である信吾君に私から質問です。

そんな自由な運命を持って生まれたはずである男性が、自分達を差し置いて女性の浮気を許さないのは何故でしょうか?

それは女性に対する身勝手な所有意識からなのではないでしょうか?

確かに悲しかったり、傷ついたりするかもしれないけど、それは相手の意思でやったことですから、一方的に怒ったり、制裁を加えたりするのは見当違いだと思うのです。

だから私は聞きたいのです、信吾君、あなたは、そこの所はどうお考えですか?」

結衣子は、キラーンと口で言いながら、人差し指で眼鏡をあげる仕草をする(もちろん眼鏡は掛けていない)。

信吾はそこで気づく、結衣子が早くも酔い始めている。しかも、酔うと理屈っぽくなるタイプだ。すでに顔も少しだけ赤い、と。

酔っているのはともかく、信吾には結衣子の話の意図が見えてこない。浮気をして何が悪いと開き直っているのだろうか?

それとも浅野先生と喧嘩でもして、その腹いせに信吾と寝たという事だろうか?しかし結衣子は元々そんな短絡的な性格ではない。

でも、今日の彼女は色んな事が本当に突拍子もなくて、どれだけ考えてみても察しがつかない。

仕方なく信吾は腕を組んだまま素直に質問に対する回答の事だけを集中して考える。 

眉間にしわを寄せて、空中の一点をじぃっと凝視する。その先には他の客が吸ったタバコの煙が浮かんでおり、それは微かな空気の流れに沿って少しずつ移動していくのが分かった。

「…でもオレも浮気されたりしたら、怒るかもしれないな。所有意識とか、もしかしたらどこかにそういう気持ちも隠れているのかもしれないけど、怒ったりするのは、もっとちゃんとした理由があると思うんだ」

結衣子は食べ物で口を膨らませたまま頷く。信吾は話を続ける。

「例えば、恋人の片方が自分達はお互いに両想いだって思っていて、その思いがすごく強かったり、そう思っている期間が長かったりして、他にも時間だけじゃなくて合う回数とか、共有してる想い出とかもたくさんあったりして、これからもずっと一緒にいたいと思っている。

その思いが強ければ強いほど、相手との大きな温度差に気づいてしまった時、すごくショックは大きいと思うんだ。男だとか、女だとかは関係ないと思う。

こんなに好きなのになんで?とか、あんなに好きって言ってたのにどうして?とか、理由を探せば探すほど、信じてきた事と現実のギャップに心が引き千切られそうになる」

突然、店の入り口のドアが開く音がして、新規の団体客の賑やかな話し声が店内に響いた。うんうんと頷く結衣子の顔を見てから、信吾はさらに話を続ける。

「一番の問題はさ、そういう気持ちをその場で上手く言葉に変えて相手に伝えられる人って、ほとんどいない事だと思うんだ。

この前テレビで観たんだけどさ、どんなに頭のいい物理学者の人でもさ、どれだけ高性能なコンピューターが計算しても、宇宙に存在する物質の質量の、たった五%までしか解明できないんだって。残り全部の物質の正体は、謎のままなんだって」

結衣子もその話は聞いた事はあったが、話の続きが聞きたいので、何も言わずに信吾の目を見ながらもう一度大きく頷いた。

「そんな人間の持つ言葉っていう道具がさ、世の中で起こるありとあらゆる出来事に、全て対応できるなんて、絶対ありえないと思うんだ。

一番分かりやすい例が、人の心だと思う。もし感情が大きな波でさ、言葉が堤防だとしたらさ、津波みたいに押し寄せる感情に、言葉の堤防はすぐに決壊しちゃうと思うんだ。

そうしたら、その時に人間がとる行動って、やっぱり怒るか泣くか、混乱する事だと思うんだ。

そういう相手の気持ちを全て無視してさ、浮気くらい大した事じゃないなんて、開き直ったりする人がたまにいるけど、そういうのは、やっぱり人として誠意のない事だと思う」

真面目に話をする時の信吾は、本当に真っ直ぐに相手を見つめる。見つめられながら淡々と話されると、結衣子はいつも、信吾の意識の中にすっぽりと包まれて漂っているような、心地良い感覚に陥る。

「今の話、ちゃんと答えになってた?」

そう聞いてくる信吾に、結衣子は柔らかい笑みを浮かべて、最後にもう一度だけ頷いた。  


しかしその後も信吾が気にしていた最初の質問には答えることはなく、話題は徐々に違う方向へ逸れていった。

「なんだかお腹いっぱいになってきたね」

「そろそろ出ようか?」  

「そうだね、でもこんなにお酒残っちゃったよ」

平気だよと言って信吾が彼女の残したお酒を手にとって一気に飲み干すと、おぉ、かっこいいじゃん、と言いながら結衣子がまた微笑んだ。

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