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【再掲】青い毛布(最終話)


そして結衣子が目を覚ました。
 
気づいたら、夫が車を運転している隣で、すっかり眠ってしまっていた。

夫は、カーステレオのボリュームを最小限に絞って、音楽か何かを聴きながら黙々とハンドルを握っている。

……一体どこまで来てしまったんだろう。

眠気の残った頭で結衣子はそう思っていた。

車の外では、深夜の闇の中に、暖色の外灯が等間隔に現れては消えていって、それは窓ガラスについた細かい傷や埃のせいか、どれもぼんやり霞んで見えた。

結衣子は、寝ている間に体に食い込んでいたシートベルトの位置を少し直して、跡がついた辺りを指で軽く触りながら、さっきまで見ていた不思議な夢の事を思い返していた。

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その夢の中では、自分はまだ高校生になったばかりで、まだ体に馴染みきっていない制服を着て、何の疑問も持たずに普通の一日を過ごしていた。

学校に行けば退屈な授業が始まって、休み時間にはクラスメイト達と他愛のないお喋りをして、授業が終わると、今の夫が自転車に跨りながら結衣子を待っている。

「今日は一緒に帰ろう」

 そう言われて、自転車の後ろに横座りしながら、帰りの途中の流れる風景を見て、結衣子はずっと不思議に思っていた。

……どうしてこの世界には、色がないんだろう?

街も、空も、人も、全てがモノクロで、それなのにその事に誰も気づいていないのだ。

すると、結衣子が乗っている自転車を、一人の少年が走って追い越していく。
何故かその少年だけには色彩が宿っていて、色素の薄い、少し茶色く見える柔らかそうな髪が、陽の光を淡く反射しながら走るリズムに合わせて揺れていた。

そのまま遠くへ行ってしまいそうなその少年を、結衣子は思わず呼び止める。

「ねぇ信吾、待ってよ」

信吾は走りながら、少しだけ速度を緩め、結衣子の方を一度だけ振り返ると、困ったように少し笑って、それから何も言わずに正面のほうに向き直り、あっという間に、ずっと先へと走り去ってしまった。

そこで目を覚まして、結衣子は今こうして、車の助手席に座っている。

時刻は深夜の二時を過ぎていて、ぼんやりとフロントガラスの先の何もない暗闇を見ていると、時折現れる他の車のテールランプやヘッドライトが、隣を追い越して行ったり、向かい側からすれ違ったりしては次々と消えていく。

やがて結衣子の乗る車はトンネルの中に入り、さっきよりもずっと濃い、オレンジの光の中に包まれていく。

「……結衣子?」

いつの間にか夫が、心配そうに結衣子を見つめていた。

「まだ着くまで時間あるからさ、寝てていいよ」

結衣子はその事についてしばらく考えた後に、静かに首を横に振った。

「…なんか、変な夢を見ちゃって」

「どんな夢?」

「それが、もう上手く思い出せないんだよね」

結衣子はステレオに手を伸ばしておもむろに音量を大きくすると、流れてくるラジオに少しの間耳を傾ける。そして、前方に視線を戻している夫に、ふいに質問をした。

「……あのさ、スヌーピーって観たことある?」

「スヌーピー?あの犬のやつ?ないけど?」

「あの話の中にね、ライナスっていう名前の男の子が出てくるんだけど…」

「主人公?」

「違うの。ライナスっていうのは主人公のクラスメイトの弟で、いつも古くて汚れた青い毛布を引きずって歩いている男の子なの。それがないと安心できなくて、誰に注意されても、何が起きても、その埃だらけで黴臭そうな青い毛布を、絶対に手放さないの」

「……それが、さっきの変な夢と関係あるの?」

たぶん、と言いながら結衣子は話を続ける。

「あのさ、いつかは手放さなければいけないのに、どうしても手放せないものって今でもある?」

「……どうだろう、タバコかな。まぁ、そのうち止めようとは思ってるけどね」

「ううん、そうじゃなくて、なんていうか、もっと、その人の根っこの部分に繋がってるものなんだけど……」

大型トラックが右側を追い越していって、その轟音が、薄暗い車内の中にまで響き渡った。結衣子は、そのトラックの赤いテールランプを見つめながら呟く。

「それがある限りはね、人はみんな、青い毛布が捨てられないライナスと一緒なんだと思う……」

 結衣子の夫はその話の意味を捉えきれずに、前を見つめたまま沈黙する。
ラジオでは落ち着いた感じの女性の声が、流行の曲を詳しく紹介していた。

オレンジの世界が続いていく中で、結衣子が窓ガラスに頭をつけてもたれると、車のエンジンの音が、低く細かく、くぐもって聞こえてきた。 

やがて車がトンネルから抜けると、藍色の夜空の世界が戻ってきて、その暖かな闇の中で、遠くに暗い山の稜線がぼんやりと浮かび上がっているのが見えて、しかしそれもすぐに、灰色の防音壁に呑み込まれて消えていく。

結衣子は時々、こういう真夜中の中にいると、「またね」と駅で叫んだあの時の最後の一言が、今でも夜の空気の中に溶け込んだまま、どこかで息を潜めているような気がしてくる。

あの夜、信吾は最後に寂しそうに笑って、そのまま一度も振り返らずに歩き去ってしまった。

その表情は、結衣子の目の奥に今でも焼きついていて、きっとあの日の出来事は、この先例え何十年と時間が経っても、さっきの夢のような形で、記憶の扉を何度も何度も叩き続けてくるのだろう。  

例えどれだけ時間が経っても、どれだけ忘れようとしても、本当に忘れてしまってからも。

 結衣子は心の中のざわめきを静めようと、記憶の中の信吾の背中に向かって、小さな声で、「さよなら」、と呟いてみる。

 それでも、心の奥にあるさざめきが静まるような気配は少しもなくて、今度は声を出さずに、唇だけをゆっくりと、またね、と動かしてみた。


――さよなら、またね、さよなら、またね、さよなら、さよなら…

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