文字起こしして初めて、自分はDVを受けていたのかもしれないと気がついた

なんとなく私の生い立ちやら生育環境やらメモするような程度の気持ちで書き殴っていこうかと思う
文脈がおかしくても壁打ちだから無視してね🎶


父親は自営業で、昼夜逆転生活だったから幼少期一緒にいた時間は確実に母親より短い。だからいつも鞭打たれるときに父親は仕事中だった。
ちなみに私は第6子で末っ子。中絶はJWの教えで許されていないからこんなに産んだのかな。

母親に面と向かって「貴方を妊娠した時は、もうこんなに無理です。どうして試練を与えるのですか、とエホバに言いました。エホバがいなければ貴方を産み育てることは出来なかったと思う」って言われたのはシンプルにショックだった。母親にとってその信仰は心の支えで、縋りたい希望の光だったろうけど、私たち6人の子供をきちんと育てたのは母親自身の頑張りの賜物なのに。

その信仰心がなければ貴方はとっくに壊れてたかもしれないけど、私の出産を「エホバ神からの試練だ」なんて思うこともなかったのにね。貴方を試すためだけに、私は神から授けられたと??
結局望んだ妊娠ではなくて、神から試練を与えられ、腹に授かってしまったから、本来は望まない存在だったって私は解釈してしまったよ。

母は信者になって30年以上。宗教の考え方抜きに会話が出来ないのが悲しい。あなたの子供である私は"エホバの証人としての母"ではなく"家族としての母"と話しがしたいだけなのに。
会話の糸口が「この前集会(あるいは奉仕)で」とか、「今度の割当てが」とか。その話題はトラウマの詰め合わせだからいつも曖昧に、適当に言葉を返すしかできない。普通に会話させて!

まあ言葉や行動で愛情表現された思い出がなくても、長く暮らしている家族なので憎みきれないんだよね。この感情は「依存」ではないよ。

あとクソどうでもいいことなんだけど、宮城のセキスイハイムスーパーアリーナの外観が札幌ドームと似ててトラウマ!家族旅行は行けないのに、毎年地域大会とかいう苦行に3泊4日どっぷり参加した記憶が顔を出しちまう
屋根の銀色の感じとか、駐車場の感じとか、歩いて遠くから見えてくる感じとか、最悪ᐢᴗᐢ
推しに逢いに来たのにトラウマも記憶の片隅から
\コンニチワ!/してきちゃう。
お呼びでないので切実にやめて欲しい
こんな所でJW元二世痛感したくない


まあ今までの人生何があったか、と言われても特筆する事などないと思う
だって記憶に残るような事なんてパッと浮かんでこないし。姉には幼少期のトラウマで記憶無いんじゃない?とは言われたけど、そんなのあるかなあ
記憶が無いわけじゃないよ。
出来事は覚えてるけど、それに付随して感情まで蘇ったりしないだけ 「あの時は確かこう思ったな」って思い出すだけ ぶり返す事は無いなあ

 1番最初の記憶は自分かきょうだいか、誰かの誕生日で、父が買ってきたケーキに、母が怒ってた事だったかな  祝っちゃいけない誕生日って面白いよね。今も誕生日に思い入れがなくて、他人はおろか、家族の誕生日さえ曖昧だし、誰が今何歳で自分とどれぐらいの年の差あるのか明確に覚えてない。確かその時は皆ケーキだけ食べて茶の間から逃げるように他の部屋に集まってた記憶
あと、夫婦喧嘩で父が母に子供のおもちゃ箱ひっくり返して投げてた記憶がある
両親の言い合いが始まると皆その場から逃げてた。姉たちは幼い私を抱っこして、逃げてくれてたかもしれない。どうだったかな
でも私が小学校上がるまでは家に両親と私だけだったから、自分が部屋でひとり遊んでるとき、茶の間から言い合う声がよく聞こえた気がする 
あ、あと乳離れがなかなか出来なかった気がするな。記憶が正しければ、自分でご飯食べれる様になっても時々母のシャツに頭を突っ込んで出ない乳を吸ってたかも。小学校高学年なるくらいまで母のおっぱい触るの辞められなかったし 今思うと異常

次の記憶は叔父の葬式に行った帰りに交通事故にあったこと 母方の祖母は叔父が亡くなって1人きりになったし、母にとっても弟ではあるから3時間近くかけて祖母の家行ったっけな
ちょうど真冬で路面状況がわるくて、ブラックアイスバーンだったかな 峠下りてる途中で止まれなくて橋から車ごと落ちかけた。その後他の車がたまたま通りがかって助けて貰えたから母と2人で救急車乗って近くの病院へ。なんかおでこにキズが残ってた記憶。今はもう無いけど。

交通事故の後かなあ、すぐ上の姉が色々あって緊急入院のちすぐ手術。
エホバの証人の母と、信者じゃない父とで口論。そりゃそうだろうね。父にとっては娘が死の淵に立ってるのに輸血拒否なんて。結果、お医者さんが尽力してくださって姉は輸血無しで(確かそうだった筈)何とか手術を終え、今も五体満足で普通に社会人やってる。

で、その後かな?母は姉に付きっきりにならざるを得ないので私は1年ちょっと保育園に行った
給食が食べきれなくて、いっつもギリギリまで1人残ってた。途中入園のクラスだったから、1人だけ年長さんに混じって遊んでた。昼寝はいつも寝れなかったな。一般家庭でやる年中行事とか一切やった事がなかったから、見よう見まねで雛祭りの歌を覚えて見たりもした。餅つきも楽しかった。あとね、親の目が無いから園で初めてクリスマスプレゼントもらって凄く嬉しかったな。当時高校生の姉たちとバスに乗って登園したのも楽しかった。

どの時期か思い出せないけど、何か怒られて全く反省しなかったのかな 全然理由は覚えてないけど、母親に叩かれて馬乗りになられて、息苦しくて死ぬかと思ったのにやめて貰えなくて、凄く泣いた記憶がある。後にも先にも「あ、死ぬんだな」ってほんとうに思ったのはこの時だけかな。そう何度も死を覚悟する機会なんてマトモに生きてたら無いわな。一緒に起こった事か分からないけど、真冬に肌着とパンツだけで玄関から締め出されたこともあったなあ。玄関の扉をガチャガチャしても、鍵がかけられてるから当然開かなくて、こわくて寒くて寂しくて泣いたかもしれない。いや普通の未就学児は泣くわ

あと、エホバの証人のピアノ教師にピアノ習ってたけど、全く練習しなかったから、母親にゴムホースでしこたま打たれながら泣いて練習してた。それを見てた姉はトラウマになったらしい。
大人になってから、きょうだいが目の前で暴力振るわれるのも虐待の一種と知った。トラウマにもなりますわ
ゴムホースで打たれるのって結構痛くて、当然すごく嫌だったから裁縫バサミかなんかで細切れにした事もあった。姉には行動力があると褒められたな

まあそんなこんなで小学校入学。ここから大学に至るまでず~~~っと宿題をしない子供だった。長期休みの宿題は毎日「忘れた」って言って居残りさせられてたかな たしか。自業自得だけど、学校も家も好きじゃないから辛かった。
小3ら辺から周りからハブられ初めた。中学あたりで、他人に言われて初めて原因に気がつくのね。まあ提出物を出した事がない子供だったし、まだ幼くて、エホバの証人の集会に行って真面目に教えを守って出来ない行事が沢山あったから浮くのは当然だった 変だから皆私のこと嫌いだったんじゃない?小学校は3.4年あたりからずっと楽しくなかったな
でもその時から家より学校の方がマシだって思ってた 父は信者じゃないから、母が居ない時に「ほんとは宗教の地区大会なんて行かないで運動会に出たい」って言ったと思う。6年間毎年1人で見に来てくれた。母は何だかんだ弁当は作ってくれたけどさ。でも未就学児のころ姉たちの運動会に皆で行ったのに、末っ子の私は父と2人だけ。寂しかったなあ

で、小学校と全く変わらない面子で持ち上がりで中学生に。
小学校から変わらず遅刻魔だった。でも中学のほうがマシだったかも。そして中1の秋頃かな、人手がほしい合唱部に勧誘されて、そこで顧問の先生に面と向かって言われて自分が臭いことにやっと気がつくわけですね。それまで本当に自分が不潔だと思った事がなかった。それでも風呂は嫌いだったけど、マシにはなった。部活がその時の唯一の楽しみだったな エホバの証人の集まりもサボれて。先輩後輩というものも経験できて。

中2の冬に転校生がきて、その子が中学で1番の友達になった。何か知らんけど、転校生の子が来ると、初日に一緒に帰ったりするのは小学校から変わらず何時も私の役目だったなあ 
で、転校生含めもう1人と私で仲良しヲタク3人となるワケ そのもう1人は中学のうちに絶交しましたが笑 
でも転校生のお陰で修学旅行は楽しかったし、"まともで"  "人並みの"中学生時代だったかもしれない。些細なきっかけで疎遠になってしまったけど。

そんで受験では公立高校の第1志望に落ち、滑り止めの私立に入学。上のきょうだいは皆自然消滅して、半分は大学進学したから、よく聞くJWの進学を推奨しない感じは我が家にはなかったな。父親が信者ではなくて、ずっと私たちが抜け出すよう願ってたのもあると思うけど。
でもこの時期に自分の家庭が本当に普通じゃない事に気が付いてしまい、絶望と出会っちゃうわけ。最悪ᐢᴗᐢ
どこからどう見てもヤバい環境で育ったけど、その中ですくすく(笑)育った私はそこしか知らないからそこがノーマルになる。最悪としか言えない。
中学は塾に行ってたから、宿題なんてしなくても成績はいつも上位半分以上か、もっと上くらいだった。高校は学費がかかるから塾は行かなかった。まあ勉強なんてしないから、クラス順位はいつも下から1.2番目。冬休みと夏休み初めにある勉強合宿が死ぬほど苦痛だった。ともだちとワイワイ出来たのは楽しかったけど。
あとは母親に内緒で生徒会に立候補して選挙にもでた。準備なんてしてないのに演説したのが懐かしい。でも母親にお伺いを立てないで、自分の意思でなにかやるのがすごい楽しかった 皆で一緒に、足並み揃えて何かできて青春らしいこともあって嬉しかった

親元から離れたくて大学進学。上京。
この頃から連絡不精が加速していく。他人との関わりがストレスになりやすいともだんだん気がついてく。
けれど、「母はどうせ許してくれないし、隠しきれない」って思って我慢することは格段に減ったし。入学当初は人生の春って感じだった。

でもサークルの人間関係で個人的なモヤモヤが凄くて、寮の同室ともトラブルがあって(基本私しか悪くない)、1年の冬からほぼ毎日自主休講。バイトは休学して実家に戻るまで2年ちょっと続けることは出来たのになあ。もうこの時点で大学やめたくて仕方がなかった。根性無しか?やりたい事しか出来ないのはちょっとどうかと自分でも思ったな^^;

で、2年に進級。最初は頑張ってたけど、結局また講義にも出なくなる。留年してまた2年生。で、寮には居れないので一回り上の長女と同居。でも同居する姉にも家族の誰にも、留年のことも不登校(?)のことも話さず同居開始。まあしこたま怒られますね。でも結局オンライン授業もマトモに受けないし、宿題なんてやってるポーズだけ。2年前から何にもする気がなかったから、なぁ〜んにもしなかった。バイトに行って、趣味やるだけ。

これには流石に長女もキレて年末前に実家に強制帰還決定。この大学の数年が1番死にたかったᐢᴗᐢ
自業自得なんですけどね🎶

実家に戻ったあと、3ヶ月くらい何もせず家に籠ってボーッとするか、雪かきの手伝いするだけの生活。
さすがに働けとせっつかれて、フリーターに。

仕事のストレスか親からのストレスか分からないけど、今日も元気に虚無だし、出勤以外は何処にも出かけず休みの日は風呂にも入らんクソ不潔生活を送っている。流石に死んだ方が良いのでは?とたまに思う

今も充分人様に迷惑かけて息をしているけど、
もっと迷惑かける前に死のう!という気持ち
でも大学時代ほど希死念慮に溢れてないので、超元気だし心身ともに健康かもしれない、と思い込むことにしている。

ぱわー!

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