君に薔薇薔薇…という感じ

2年前、友達と旅行に行った時のこと。

登山サークルだった俺たちだが、山の中にテント張って……というアレをしにいったわけではない。数年やってみればわかるが、そんなにいいもんじゃない。正確に言うならば、いいものではあるけれどアレを一緒にできる人となら結局どこに行っても何をしても楽しいのだ。

長野にサークルの別荘がある。
過去のOBたちがカンパで建ててくれたものらしい。
とんでもない行動力だ。ありがてえ。

釣り堀で鮎を釣り、温泉に入り、高原を歩き、牧場で遊んだ。
夜には酒を飲み、飯を食い、朝までトランプをしたり何もしなかったりした。

当たり前のことだが、みんな学生の頃とは少しずつ違ってきている。
大学を卒業して分かたれたの道のどこかで拾ってきた影を各々のかんばせに宿していた。
その影は昔を懐かしむ温かさと過ぎたものを想う切なさを孕んでいて、同じ時間を過ごす中で少しだけ晴れたり、あるいは少しだけ濃くなったりした。

最終日、女神湖のほとりを歩いているとき、一人が言った。
「ずっとここにいられたらいいのにな」
誰もが口にするだろう、よくある現実逃避の一言だったかもしれない。
けれど俺はその一言と、日差しで輝く湖面に照り返された横顔に痛切な寂しさを感じた。
すぐさま駆け寄って声をかけ、なんであれば抱きしめてもやりたかったけれど、友達の真意は計り知れないまま俺の心は定まらなかった。

黙っていても夏は終わり、動かしようのない暮らしを進める。
すでに山並みの向こうに太陽は沈みかけ、女神湖を抜けていく風は気だるい暑気を帯びつつも涼やかだった。
夢のような時間は終わって、現実の世界が始まる。
俺たちは東京に帰り、ひとりの労働者に戻る。 
そのことが悲しいやら心もとないやら、たまに膝を折りたくなる。
それでも、折れない理由もきっとこの時間があるからで、なにより膝を折ったところで止まれも戻れもしないことをわかっているからだ。

大小あれど、きっとみんな同じ寂しさを抱えている。それが少しの影を落としていく。
色々なことが少しずつ変わって、もはや昔の自分のままではいられない。
何かに染められたり、ほだされたり、強いられたりして変わっていく。
話す内容はこの間の笑い話から、あの日の昔話になった。
今隣にいる友達とはもう二度と会わないかもしれない。

変わってゆくことは止められないけれど、同じ気持ちがあると確信できた日があったことをたまらなく大切に感じる。
同じ形の寂しさを抱えているという事実が、不思議な心強さを持つ時もある。

女神湖のほとりで聞いた友達の寂しさが、それに共鳴した俺の寂しさが、同じ寂しさを抱えた他の誰かの心を癒やす日がきっと来る。
誰かのための何かに変わる日がきっとくる、そんな確信があった。

あれから2年が経った。
もう二度と会わないかもしれないなんていう俺の陰気な思い込みとは裏腹に、友人達とはたびたび遊んでいる。

人との関係は割と自分の努力次第で繋ぎとめていられる。1回2回予定が合わなかったからなんだという強い気持ちで、会いたければ会えるまで誘うことにしている。多分間違っていないはず。

いつか終わりはやってくる。それを忘れてはいけない。
ただし今日ではない。明日でもない。遠いようで意外に近い、いつかの話だ。

必ずくるものではあるが、それをずっと前から警戒して予防線を張り続けて過ごすのは楽しくない。大切なのは今を味わい尽くすことだ。二度と戻らないから、いつか終わるから、今日が大事で君たちが大事なのである。

及び腰でこわごわしているより思い切り飛び込みたい。その中で取りこぼすものがあったとしても、他に得たものを眺めて笑っていたい。

変わっていくことはいいことばかりではない。寂しいことも悲しいことも不安なことも沢山ある。当然だ。それでもお互いのかけがえのない今という時間を分け合えることの喜びを大事にしたい。

2年前の女神湖、俺はきっと嬉しかったのだ。抱きしめたかったのは慰めるためではなく分かち合うためだったのだ。

いいことばかりではない中で、少なくとも変わっていくことに怯えたくない。本当にそう思う。

このnoteにしたってそうだ。誰が読むんだよと我ながら思うし、書き上げたものを眺めていると己の文章の稚拙さにゲロ吐きそうになる。
自分の考えていることを発信するのは恥ずかしいことこの上ない。マジで。本当言ったら何もしないのが一番傷つかないし楽なのはわかっている。

それでも、これを読んでくれる誰かの今に少しでも触れることができたなら幸せなことこの上ない。

Thank you おやすみ

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