何年経っても迎えに行くから
子どもの頃に読んだ本を覚えている。
『トゥートとパドル ふたりのすてきな12か月』という、子豚のトゥートとパドルが主人公の絵本だ。性格はまるっきり反対なれど仲のいい二人だったが、ある日トゥートが突然旅に出ることを決め、パドルは「ぼくはいかない」と家に残る。物語は二人の手紙のやり取りを通じて描かれていく。
幼稚園の同級生に外遊びに誘われた時、「やめとく」と固辞するのがお決まりであった幼い俺は、旅先で見たもの感じたことを衒いなく送ってくるトゥートよりも、馴染み深い家の周囲で起きたことを報告するパドルの方に強く感情移入していた。
先日、祖母の法事で実家に帰った際に改めて手に取った。
何度か引っ越しを経ても散逸することなく手元に残っていることに感謝しつつページをめくると、色あせた表紙が軋んだ。
27歳になっても良い本だった。
子どもの頃に読んだ本は不思議なもので、今の今まで存在をとんと忘れていても1ページめくるたびに当時のことをありありと思い出せる。
胸の奥がじわり、というやつだった。幾分大人になった俺も変わらない優しさで迎えてくれた。
一人遊びが好きだった……もとい、あまり多くの人と仲良くやるのが得意ではなかった俺にとって本の世界は都合がよく、手が動くままに次から次へと読み漁った。それしかやることがなかっただけなのだが、弱冠4‐5歳にして世界を旅することができた。スーホの馬の末路に涙し、橋の下のトロールにおびえ、11ぴきのねこの暮らしに溶け込み、手袋の中で厳しい冬を乗り切った。
どれもが心を耕し、双眸に映る色を増やしてくれた。それから20数年、良いことがあったり悪いことがあったりしながら、いつしか俺も現実の世界の中で立ち回らざるを得なくなっていった。
現在の我が日常はまさにリアリティの中にある。
朝は9時頃に業務を始め、大体20時半までには仕事を切り上げる。遅くなる日は23時頃までかかる。そこから煙草を吸いながら食事を準備したり、酒を飲みながらスマブラをしたり本を読んだりする。
届くのは遠く離れた友達からの手紙ではなく会社からの連絡、取引先からのメール、クレジットカードの利用明細、光熱費の通知、年末調整のための保険会社の書類……世界の広がりも何もあったものではない。俺を対応事項で生き埋めにせんばかりの気概を感じる。
法事の前日も緊急の対応事項が入り、かなりボロボロの状態で出向いた。死者を偲ぶ会に向かうために生者が死にかけている。どういう皮肉なんだ。
親戚一同を繋ぎとめるような存在であった祖母を喪い、どことなく精彩を欠いた皆の動きが少し切なく、少し苛立った。
2階の自室へ引っ込み、壁の中に埋め込む形で備え付けられている本棚の中から手に取ったのが『トゥートとパドル 』だった。
この本の存在を忘れてしまっていた罪悪感を、恩義ある祖母の法事に至っても哀惜の一念でいられない自分の不甲斐なさに重ねてしまう。
同時に、ページを繰るたびに温もる心持ちを、俺が出ていったままにしてくれている自室の有様にもまた、重ねてしまうのだった。
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