おめでとうの出

初めて口喧嘩に勝利したのは3歳のことである。
幼稚園の入園式に向かう道中で、2つ年上の兄から「いよいよ〇〇も入学式だね!」と声をかけられたときに「幼稚園だから入園式でしょ?」と反論した。おそらく人格否定のターンまで行った気がする。父母はドン引きしていて、兄は泣いていた。

そんなことだから、俺は生来の気質として口が立つ上に口が悪い。
口は災いの元、というか俺自体が災いと言って差し支えなかった。

とはいっても、それを活かして大成できるほどの才覚はない。ラップが好きだったこともあって、高校2年生の頃から大学3年生くらいまでの間にちょろっとMCバトルの大会に出たりしてみたこともあったが、3回戦ボーイが俺の最高戦績である。初めて出たバトルでは口からでまかせの罵詈雑言と嘲笑で調子よく1回戦を勝ち上がったものの、2回戦で当たったトルコ人に「お前の人生の話を聞かせてみろよ」と言われ、どこから話そうか迷っていたらあっさり負けた。ビートはMama Said Knock You Outだった。

幸いなことに友人関係においてはあまり困ったことがない。正確に言えば、それで揉めた人間とは基本的に国交が断絶している。
そもそも、まず俺のような人間を面白がって親しくしてくれている時点でまず常軌を逸している。であれば、口の悪さについてはあまり問題にならない。なぜなら皆多かれ少なかれ同じような視点を心に飼っているからだ。反論は認める。
それよりも問題になるのは、彼らに前向きな言葉をかけたい時だ。

大事なことを話すときはいつも言葉に詰まる。
一つ一つ、絶対に間違えたくないという一心で話しているので、「……だと思うんだ。どう?」と返した相手の頭上に真夏の積乱雲のように大きなハテナが浮かんでいるなんていうことがザラにある。
高校生の頃、初めて人に告白したときにあれこれと言葉を弄した結果「それは好きだってことでいい?」と聞き返され、恥ずかしいやら情けないやらで危うく気絶しかけた。
その日はヨロヨロと家に帰って布団をかぶって大きな声を出した記憶がある。
ちなみに今もたまにそういう日はある。もう成人したので、強めの酒を飲み、肺胞ひとつひとつに行き渡るように深く深く煙草を吸い、脳内裁判でしっかり敗訴を勝ち取り、暴力的な自慰行為に励んだ後に眠る。

ただ、最近は率直な気持ちが言葉の形を持って自分の裡から転がり出ることも増えてきた。
大学時代から大変仲良くしてもらっている友人の婚約報告を聞いたときは即座に連絡を返した後に祝福動画を撮影して送りつけ、後日顔を合わせたときには心の底からのおめでとうが出てきた。

新鮮な感覚だった。まるで口の中から大きなカブがすっぽり抜けたかのような、得も言われぬ爽快感があった。自分が彼を祝いたいという気持ちがそのまま形になっていると確信が持てる五文字で、表情まで併せてあれ以上はないと数週間経った今でも思う。

自分に関することについてはまだ難しいが、自分の大切な人間の大切な出来事には少しだけ素直になれているのかもしれない。
人に優しくできない限りは本当の意味で自分に優しくすることはできない、と多くの人が言う。俺は人に悪口を垂れる才能に恵まれたので、自分に対する悪口も造作もなく出てくる。象限が異なるだけで同じ話なのかもしれない。
自分にとって大切な人の慶事を祝うにつれ、真の意味で慈しむことを知れている気がする。
いつの日か自分にもそれは適用できる日が来るまで、自分の心を占める思いの形を捕まえる努力は欠かせたくない。

少しだけ風通しの良くなった胸中に冬の風が吹くたび、少しだけヒリヒリしたが、それも悪くないのであった。

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