欲しいものはここにある

年末はずっと誰かが傍にいたが、大みそかだけは一人になった。
ここ数年、「現実」の重みを感じさせられることが多かったが、それでも年末は穏やかな気持ちになるものだ。今年も例に漏れずそうである。

序盤はなかなか足を引っ張られるイベントがあったものの、そこからは加速度的に良くなっていった気がする。
コロナウイルスに侵された数日もあったが、5月の森道市場にはまた行きたいし、夏にほぼ毎週バーベキューをやったのも楽しかった。
秋には友達の結婚式に参列出来て、noteも始めた。毎週更新は削除したものを除けば継続できている(一応、理は通せる)。

近所の川沿いを歩きながら、そんなことを考えていた。
日照りが続いた夏には猛烈な日差しによって水草がカピカピになるほど干上がりかけていたが、今はしめやかな流れが戻ってきている。
長らく続いている護岸工事も次の春には終わるらしい。

散歩から帰ってきた。

小さな湯船にたっぷりの湯を張って、ざぶんと頭まで浸かる。
手足の先がキリリと痛み、それほどに冷えていたことを思い出させる。
目を閉じて深く息を吸う。体のこわばりがほぐれるように、自分の心臓の音と水滴が風呂場に跳ねる音だけに集中する。
存分に楽しんだ後、寝間着に着替えて好きな曲をかける。
散歩の帰りに買った赤いきつねを固めに作って食べる。
今日はわさびもおろして添えてみる。
湯気の熱さとわさびの辛さにむせて涙がにじむ。
煙草を深く吸う。強めの酒も少しだけ舐めてみる。

誰かと一緒にいることは楽しい。何よりの幸せである。
俺はきっと得難い人間関係を持つことができている。今年も彼らにどれほど支えられたことだろうか。
ただ、それだけではいけないと同時に強く思う。
彼らにもらったものを一つ一つ眺めて、適切なところに仕舞っておくための時間も必要だ。思い出だったり、想念だったり、それらの形を捉える時の眼差しだけは一人でありたい。

疲れているわけではない。
ただ自分にとってどれだけ大切なものであるかを忘れたくない。
当たり前にあるものだと思いあがりたくない。

欲しいものは無限に膨れ上がっていく。
使いきれない富、絶えず浴びせられる名声。皆きっと心のどこかでは欲しいと思っている。俺も勿論そうだ。
そういう、物質的な成功が唯一絶対の指標ではない。が、それを誰かの物質的な成功を横目に通り過ぎる為の諦めの言葉にしたくない。
俺も一旦それらを手に入れてから、自分が今まで大事にしていたものと両手に乗せてみて、やっぱりこれが一番好きだよと言いたいのだ。

そのために、現時点でどれだけ恵まれていて、何に支えられてここに立っているのかは自分だけの目線で常に問い直す必要がある。

本当に欲しいもの、俺にしか得られないものは、もう既に全て持っている。
ここから求めるものは典型に過ぎない。それは承知の上で求めていきたい。

あと数時間で今年が終わる。
散々かっこつけたことを書いたが、どうせ1週間後には会社のデスクで死にかけている。またオンボロの脳みそを操縦するだけの時間もあるだろう。
山手通りを絶叫しながら爆走したくもなるだろう。
本来の俺は公文の月謝を自宅から教室までの300mで完全に紛失するポンコツからあまり成長していない。

だから、そのたびにこれを読み返すのだと思う。
来年の末には何を書くのか楽しみだ。

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