月面歩行

バナナを食するベストタイミングは、果肉が腐る直前である。
買ったばかりの固い状態では青臭い。さりとて腐りきってしまっては元も子もない。
実家ではバナナの熟し具合の観察に尋常ならざる情熱を注いでいた祖母によってバナナをかけておくためだけにハンガーが特製されており、毎朝バナナに熱い目線を注ぐ祖母を視界の端に育った俺もまた、食べごろとそうでないものを一瞥するだけで判別できるようになった。
果物を買うことも少ない一人暮らしにおいては全くと言っていいほど役に立っていないスキルである。
祖母が死んだ今、実家でバナナを気にする者はいなくなった。
ハンガーもどこかに消えてしまった。

同じ部署の面々と飲みに行った帰り道、駅まで上司と一緒に歩いた。
あまり酒を飲んで酔う印象のない人だが、少人数だったことも手伝ってか、その日の足取りはいつもより愉快だった。
時折肩をぶつからせながら、上司は俺のこれからのキャリアについて語ってくれた。

酔っ払ってする話でもないが、俺のような木っ端社員のキャリアなぞオフィシャルな場で話したって仕方ないので、別にありがたかった。
改札で上司と別れたあと、なんとなく電車ではなく歩いて帰ることにした。

俺は上司を部下として尊敬している。仕事に当たる上でのスタンスは冷徹でありながら、眼前の人に対しては温かい。その温かさも結局仕事のためではあるのだが、俺が社会に出て見てきた中においてはそういう立ち回りが出来ないヤバい大人の方が多かった。(俺も含めて)
その他の仕事術についても学ぶべきところは多く、とりあえずこの人の近くで学ぶものがあるうちはこの会社にいてもいいかなと思う。

そう思っていても、心から楽しめたと言い切れない飲み会の帰り道というものは少しだけ暗いことを考えてしまう。
大して増えない貯蓄、数カ月洗っていない風呂場の棚、月曜日にはまた始まる仕事、そういったものが次々と脳裏に思い起こされ、少しずつ心を削っていく。

バナナを食するベストタイミングは果肉が腐る直前である。買ったばかりの固い状態では青臭い。さりとて腐りきってしまっては元も子もない。今の俺はどうだろうか。

とりとめもなくそんなことを考えながら歩き続け、道すがらコンビニで缶酎ハイを買った。夜風に吹かれながら酎ハイをぐいぐいやりながら歩く。昔の俺が見たら罵倒すること請け合いな姿であることは間違いなかった。

飲み会では少しも染みなかった酒が一人になった途端に回りだして、徐々に体が熱くなっていく。自分の体とそれ以外の輪郭がぼんやり溶けていく感覚は、アルコールが間違いなく薬物であることを思い出させる。家まではあと少しのところまで来た。

酎ハイの炭酸が強く、胸が詰まる。咳き込んだあと、涙目で見上げた月が滲んで眩しい。
酔っ払いの涙に映る月も平等に美しい。そう思えるうちはまだ、少しだけ大丈夫。

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