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シカ人間の精神―危機のときほど、遊んでしまえ/栗原康(仕事文脈vol.9)


奈良公園でシカに食われる

 むかし、シカに食われたことがある。かまれたんじゃない。食われたんだ。二〇代のころ、わたしはよく男友だちと三人で京都に旅行にいっていた。そこでハマったのが六波羅蜜寺の空也上人像だ。仏像のすばらしさもさることながら、なんか手にはシカの角がついた杖をもっていて、腰にはシカの皮袋をたれさげている。ど迫力だ。みんなでこりゃすごいねといって、宿にもどってからいろいろしらべていたら、空也だけじゃなく、平安末期あたりから、シカの皮をまとって山にはいり、ひたすら踊っているお坊さんたちがすげえいっぱいいたということをしった。畜生法師だ。そんな事実をしってしまったら、二〇代の男子はもう大興奮である。ノリで明日は奈良にいこうぜ、シカをみようぜということになった。わたしにとっては、生まれてはじめての奈良旅行だ。

 翌日、意気揚々と奈良にいってみた。とりあえず、東大寺の大仏のほうにむかってみる。すると、とちゅう奈良公園にうじゃうじゃとシカたちがいるのがみえた。うおお、シカだ、シカだ。みんなで歓声をあげた。よし、交流だ、交流をしよう。シカせんべいを買って、エサをあげてみることにした。ホラッ、ホラッ。友だちがせんべいをくれてやると、シカがあつまってきて、むしゃむしゃとおいしそうに食べていた。わあ、かわいい。わたしもやってみようとおもい、袋からせんべいをとりだそうとガサゴソやっていると、その一瞬のことだ。前方からすごいいきおいで、シカがドーンッと突進してきた。うっ。わたしがタックルをくらってひるんでいると、すかさず、ふところにもぐりこんできた。パクッ。ぎゃああ!!! なんと、わたしの胸に食らいついてきたのだ。いてえよ、いてえよ。わたしが後ろにさがっても、そのままついてきてはなれない。

 こいつ食う気だ。わたしは恐怖をかんじて腰くだけになってしまい、友だちにたすけをもとめたが、なんか笑っていてたすけてくれない。あいつシカに食われてるぞと。マジなのに。どうしたものか。フッとまわりをみわたすとやはりシカにおそわれ、バックをうばわれている女性のすがたがみえた。きゃああ。悲鳴がきこえてくる。地獄絵図だ。どうやら、わたしはシカをみくびっていたようである。それまでわたしはシカといえば、いろんな動物に狩られてばかりでよわよわしく、しかもひとにチョロッと餌づけされただけでなびいてしまう、あたまのわるい存在だとおもっていた。よわっちくて、いつも生存の危機にさらされているから、つよいもののいうことならなんでもきいてしまうのだと。でも、それはぜんぜんちがっていた。よわっちいのは、わたしのほうだ。現にやられているのだから。だいたい、ちょっとカネがなきゃ死ぬとおもって、デタラメな仕事でもなんでも、ひとのいうことをきいてしまうのは人間のほうじゃないか。人間は人間にこびへつらう。でも、シカは死んでもこびやしない。

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