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【寄稿】台湾のナイトクラブで婚姻平等を体験する・後編/燈里(仕事文脈vol.23)

クラブ文化及びダンスミュージックは、70年代のNYで有色人種のLGBTQコミュニティから生まれた。当時は同性愛者の権利を守る制度はなく、同性愛を禁じるソドミー法の下、警察がゲイバーに踏み込み捜査を行い、クィアの人々の逮捕と暴行を繰り返していた。特に警察の目の敵にされたのは、アフリカ系・ラテン系のトランスジェンダーの人々やセックスワーカー、ホームレスだった。この性、人種、階級の複合的な差別に反対して1969年6月28日に当事者達が起こした暴動がストーンウォールの反乱だった。そして1年後、この反乱を記念して開かれたデモが初めてのプライド運動であり、今尚世界中でクィアの権利を求めてプライドパレードは開催されている。社会運動と並行して、有色人種のクィアがありのままの自分を表現し祝福できる安全な避難場所としてナイトクラブは発展した。クラブで流れる音楽ジャンルはディスコもハウスもテクノも全て黒人のゲイのDJがゲイクラブや会員制のクィア向けのクラブで発展させたものだった。*1
 
台湾でも同様に、クラブは歴史的にクィアのセーファースペースであり、その文脈は今でも共有されている。台湾で初めてダンスミュージックに特化した最初のナイトクラブ、Twilight Zoneができたのは80年代後半。真っ暗な内装と当時他では聴くことができなかった音楽ジャンルで人気を博し、同じオーナーと会場で規模を拡大、Undergroundと名前を変えて再オープンした。そのレジデントDJであったVictor Chengは、ゲイがクラブで踊れる場を作ろうとUndergroundでゲイパーティを始める。彼の友人でありFunkyというゲイバーでハウスのDJをしていたJimmy Chenを招き、パーティを共同主催した。それが1995年、台湾で初めて定期開催となったLGBTQに焦点を当てたパーティーシリーズ、Paradise Partyであった。2人がソウルハウスやガレージをDJする時間は2時間程度で、残りはより地元の台湾人に馴染みのあったチャチャやタンゴ、カラオケの時間にし、午前1時からはステージでドラァグのショーを開催していたという。*2 Paradise Partyは2000年代初頭に終わったが、その後台北市内にできたナイトクラブ、@liveやTexoundにDJやクィアの観客は移り、クィアパーティの歴史と文化は引き継がれていった。

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