見出し画像

【小説】冬闘紛糾/兼桝綾(仕事文脈vol.17)

(1)
 総合出版社恵鶏社労働組合の庶務係、丸本(二年目、女性社員)は呆れていた。亀田が一時間も会議に遅れて、それなのに弁当を食べようとしているからである。丸本はいつも組合執行部会の前日に会議の出席人数を確認し、当日会議の一時間前には弁当を購入する。毎回弁当は一個あまる…何故か、というのはすぐに分かる、亀田が定時に来ないのだ。また今日も遅れてきて、すいませんね、どうも…といいながらテーブルの上に一つ取り残されていた弁当をとって隅の席に座り、すぐさま熨斗をやぶりはじめた。
「亀田さん、毎回こんなに遅刻して、お弁当だけ食べるっていうのは、ちょっと良くないと思いますけど」
「丸本さん、亀田さんは良いんだ」
と組合委員長に言われても、丸本はちっとも納得できない。何が良いというのか。この亀田という男は、五十を超えてまだ管理職にならず、現在組合員の中では最年長だ。リーマンショックの年の厳しい労使交渉の際、組合委員長だったことが自慢で、会社側からのボーナスゼロの回答に対し、組合執行部一同で廊下を占拠しストを行い、当時の経営企画部長に「勘弁してください」と土下座させたという伝説をもつ。しかし伝説は昔、今は令和である。「ミスター組合」と社内で呼ばれるその男も丸本の目には現在、「ただ飯喰らい」にしか見えていない。
丸本は今年度が初めての「執行部入り」だったが、選挙で選ばれた時は誇らしかった.
その選挙が実質、根回しの末の出来レースだったとしても。恵鶏社の組合の歴史は古く、またその活動は泥臭く、華がない、得もしない、したがって執行部を引き受けるお人よしは自然と限られ、ここ数年は構成員にほとんど入れ替わりがなかった。しかしだからこそ、他の社員にはない、部署をこえた信頼感で各々がむずばれている…と丸本は憧れていたのだが、それがなんだか、この「おじさん」が一人いるだけで、この古式ゆかしさが、変化を嫌う組織の欠点っていう印象になっちゃうんだよな。丸本の思いをよそに亀田は弁当をがつがつと頬張る。亀田は痩せの大食い、しかも早食いで、会議終了の十分前に来たくせに、すぐに食べ終わってしまいそうだ。
「亀田さん、――カ月分で行くことに決めたから」
 組合委員長の松葉が亀田に告げる。今日は冬闘、冬のボーナスの数字を決める労使交渉の事前打ち合わせであった。組合委員長松葉、副委員長亀田、書記長の神崎、そして庶務係の丸本で、十分後には経営企画部長との交渉に臨む。
「しかし、経営層はつくづく編集という仕事を軽視してる。生産高でしか評価しない」
 そう言って組合委員長松葉は腕を組んだ。松葉は新卒社員として入社してから十三年目の三十五歳。委員長になるのは今期が初めてだった。東大卒で体躯にも恵まれ、ちょっと昔の俳優みたいな顔の良さで、仕事も出来た。向かうところ敵なし、それ故不遜なところもあったのだが、夫婦生活には挫折。この春シングルファザーになった。シングルファザーに組合委員長は負担が重すぎるのではと組合員に心配されたが、松葉はかえって燃えていた。松葉はマイノリティーになることで、見える世界が随分変わるということを、身をもって知った。松葉は基本的に前向きでいつも正しかったので(前妻には、「あなたの正しさが私にはちょっともう無理」と言われた)、この歳まで知らなかったことの多さを反省し、この会社を誰にとっても働きやすい会社にしたいと思った。組合員の人数が全従業員に対し過半数を割り込み高齢化の進んだ構造の中で、「女性が働きやすい会社」というのはひいては、全従業員が働きやすい会社を意味するのではないか。春闘決起会で松葉がそう演説した際、組合員達からは拍手が起こった。松葉は実際よく働いたし、その「熱さ」は組合と組合員にとって都合が良かった。そんなわけで組合に愛され、組合を愛する男として、労使交渉の長引きそうな夜は、未就学児の娘を川越からでてきた母親にみてもらっている。
「仕方がないでしょうな。出向者が数年おきに入れ替わり経営に携わる現状の構造では、どうしたって任期中を、ひいては今期をのりきることだけが最優先の経営課題となる。ただ何回社側が交代してもこちらは変わらず、一歩一歩、粘り強く交渉ですよ」
「亀田さんがはやく出世して、現状を変えていただくのが早いんじゃないですか」
 亀田のいかにも手練れらしい台詞に、書記長神崎が笑いながら水を差した。神崎は軽薄だった。否、軽薄に見せていた。神崎は旧帝大大学院で史学を修めた才女だったが、若い女性というだけで女性ファッション誌に配属され、辛酸を舐めていた。神崎は気配りが苦手で融通が利かない性質だった。急な変更が多い撮影の日々は神崎を参らせた。そもそもファッションに全然興味がもてなかった。年中黒のハイネックか白のシャツで用が足りる人間だった。当然のように配属から数年たっても、神崎自身を含む部署の全員が、神崎の仕事に満足していなかった。仕方なく神崎は本気で働いていないふりをした。本気で働いていないので間違えますというふりをした。誰も神崎に大きな仕事を頼まなくなった。神崎は定時で退社できるようになった。それでも普通に仕事は回った。神崎以外の人間が頑張っていたから。神崎はむなしかった。私を学芸編集部に配属してくれたらなあ。もしくは新書編集部でも良い。そしたら大車輪の活躍を見せるのに。ファッションの人達なんか「大車輪」も知ってるか怪しいぞ。ああ、こんな態度だからみんなに嫌われるんだなあ。神崎は人事配置への不満を組合活動へ注ぐエネルギーに変換した。神崎の居場所は労働組合だった。神崎は亀田の「全盛期」を知らなかったが、亀田を尊敬していた。ぼんやりとすごしているだけでも年功序列で出世してしまうような社風だ。無能のふりを貫くにも胆力がいる。五十をすぎて組合員の亀田は「ほんもの」という気がした。丸本と違って、本物の無能かと疑ったことはなかった。
「今日は長い闘いになりますが、頑張りましょう」
 松葉委員長がそう言って、会議は終了した。

ここから先は

4,606字

¥ 100

お読みいただきありがとうございます。サポートいただけましたら、記事制作やライターさんへのお礼に使わせていただきます!