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小説 東京より速く遠く/兼桝綾(仕事文脈vol.16)

 目の前の大きな道路の、横断歩道でもなんでもない場所を、イコちゃんは手も上げずにすたすたと歩いていって、私は驚いた。東京育ちなんだな、と思った。私が生まれ育った場所にはそもそもこんな大きな道路は高速くらいで、こんな場所を、しかもビュンビュン行き交う車の隙をついて、すーっと渡れるなんてよっぽど、人口の多さに鍛えられているに違いなかった。私がまごついている間にイコちゃんはとっくに向こう側に着いてしまい、こちらを振り返って、まだ私がこちら側にいることにびっくりしたような顔をして、「は・や・く」、と口を動かした、が、勿論それは聞こえなかった。距離も離れているけれど、イコちゃんは声がとても小さい。「は・や・く」って言うけど私は頑張ってる、私は十分頑張ってる、と思いながら行き交う車を眺め、たまらなく心細くなったことを覚えている。当時の私は19歳で、「イコちゃん」は上京して私がはじめて見つけた、「素敵な」「東京らしい」「才能のありそうな」暮らしのいわば尻尾で、それをつかんで離さないことが、私にとって何よりも重要なことだった。

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