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生きるためのフェミニズム おしゃべり会 第4回ゲスト:栗原康(政治学者)

堅田 「生きるためのフェミニズム おしゃべり会」第4回は、栗原康さんをお迎えしました。お久しぶりというか、いつ最後に会ったのかも思い出せないぐらいなんですけど。

栗原 本当にひさしぶりですね。

堅田 栗原さんは2008年の北海道・洞爺湖で開催されたG8サミットに反対する運動にがっつり関わっていたじゃないですか。

栗原 はい。同時期に『G8 サミット体制とはなにか』(以文社)という本も書いたり。

堅田 あのとき、私もちょっとだけ洞爺湖のキャンプに行ったりしていて。

栗原 キャンプ地でお会いましたね。その後、一度、堅田さんのご自宅に白石嘉治さん(*注1)たちと伺ったことがありましたよね。

堅田 ありました! それが最後にお会いしたときかな。

*注1:フランス文学者。著書に『不純なる教養』、共著に『ネオリベ現代生活批判序説』『文明の恐怖に直面したら読む本』

栗原さんと話すなら、自発がいいな

ーお二人でこういうふうにお話することじたい、これまでないですよね。初めて会ったときの記憶とか?

堅田 あんまり覚えてない…白石さんに紹介してもらったのかな?

栗原 堅田さんの名前を知ったのは「情況」(情況出版)という雑誌です。ぼくはデビューというか、初めて書いた雑誌が「情況」なんですけど、おなじ号に堅田さんのベーシックインカム論が載っていて、「おおーっ! ベーシックインカムを研究している人がいる!」って、友人たちと盛りあがった覚えがあります。

堅田 私も初めて書かせてもらった雑誌が「情況」なんです! そこでも栗原さんの書いているものを読んでいるし、ご著書もずっと読んできてるんですけど、全然ブレてないですよね。

栗原 ありがとうございます。

堅田 結構みんなリベっちゃうけど、栗原さんて徹底してリベらないですよね。「自由」は大事という話が、気付いたら「選択の自由」にすり替えられていくリベラルのヤバさみたいなのを感じることが多いけど、栗原さんにはそれが一切ないなって。

栗原 選択させられると困っちゃう。「えー、選ばなきゃいけないの?」って。しかも、選ぶときってどうしても目的が与えられるわけで、そのために「これをやらなきゃいけない」と強制させられている感じがして。

堅田 それある! だから、「自由」じゃなくて「自発」なんだっていう栗原さんの発信は重要だし貴重だと思います。『サボる哲学』(NHK新書)も読んだんですけど、「いきなり!ステーキ」の話が私なぜかすごく好きで(笑) 何が好きって、リブロースステーキでしたっけ? 肉を食った栗原さんの体に力がみなぎっていくときの描写とか、業績不振なのにオイスターを出すぞ、だってうまいオイスター食いたいだろ、とか言って、怪訝な顔の社員そっちのけで押し通す社長の描き方とか楽しくて。なぜか私も肉食いたくなるんですよ(笑)

サボる哲学

栗原 うれしい(笑)。

堅田 私も「怠けよう」とか言いながら、実際には根が真面目で、意外とサボれないところがあって。栗原さんもたぶんそうだと思うんだけど、「怠惰にしよう」とか「サボろう」とかいうくせに、実はめっちゃ勤勉じゃないですか。

栗原 はい(笑)。僕も真面目で、トークイベントのときとか、めっちゃ準備しちゃうんですよ。適当にやりましょうよっていいながら、このテーマはこう話そう、この話題を振ったら面白いかなとか、ノートに書いて当日向かうんです。それで、たまに怒られたり。

堅田 自発でいこうぜ、って?

栗原 ひょいとノートを取りあげられました。ブレイディみかこさんなんですけど(笑)。

堅田 おお、やるなあ~! 実はこれまでのおしゃべり会では、せっかくの機会だし、毎回こういうこと聞いてみよう、話してみようと事前にめっちゃ準備していたんです。今日もね、やりかけていたの。でもやめました。栗原さんと話すなら、自発がいいなと思って。

栗原 ぜひもなし、です!

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オンライン授業と、狂ったように歩くことと

栗原 ずっとオンライン授業ですか?

堅田 はい、そうです。ひとつの授業の受講生が300人とか400人とかなので。栗原さんもオンライン授業してるんですよね?

栗原 やってますね(笑)。しかし人間の身体って怖いなと思うのは、オンラインに身体が慣れてきてしまう。学生はZOOM画面に顔だしをしないから、理解したかどうか反応をみるために、わかったら「いいね」のマークをだしてと、よく言っていて。初めはリアクションマークを小馬鹿にしてたんですけど、1年くらい続けていくうちに、マークがでるとちょっと嬉しいと思うようになっていて。

堅田 おお、使いこなしている! 私、リアクションマークとかあまり使えなくて、PCの黒い画面、闇に向かって独りごといってる気分。

栗原 おなじく大学教員をしている友人で、マニュエル・ヤンさんというひとがいるんですけど、かれは「相手も闇だから俺も闇になる」といってました。部屋も真っ暗にしてオンライン授業しているって。

ー授業の数だけ闇が。

栗原 オンラインだと、授業中の学生のうるささというか、私語もない。居眠りしてる人も見えない。

堅田 学生が寝てたり、しゃべったり、そういうのを見てちょっと安心する感じが奪われちゃった。栗原さんの本を読んで、自分ではわからなかったけど、オンライン授業のせいなんだって気がついたことがあって。私、コロナ禍になってから狂ったように歩いているんです。それこそ1日2万歩とか。『サボる哲学』に、マニュエル・ヤンさんが東京・西荻窪から埼玉の栗原さんのおうちまで歩いてくる話があるじゃないですか。

栗原 朝8時くらいに家を出たといってました。

堅田 それはちょっとびっくりしたけど、狂ったように歩く気持ちがわかるというか、私もすごく共感したんです。それから、私も栗原さんみたいに地域の野良猫に会いに行っていて。ポケットにパンパンに猫の餌を詰めて夜散歩に繰り出すっていうのをずっとやっていて。

栗原 一緒ですね。

堅田 それで、私は「輸送」じゃなくて「散歩」がしたかったんだって気がついたんです。

栗原 人類学者のティム・インゴルドが、最初からルートが決められていて、そのゴールに向かって効率的に移動するのが「輸送」だといっています。それに対して、初めからルートは決まってなくて、具体的な生活の道に沿って、そのつど歩みを変えていく。それが「徒歩旅行」、散歩だと。通勤のための道路じゃなく、野良猫に会いにいく散歩道。ふだんは意識しない草の揺れる音や、ご近所さんの車庫や屋根。野良猫の気配やテリトリー、僕ら以外にも野良猫に会いにきているだれかの痕跡をたどりながら歩いていく。そうやって、いろんな人や動物がそれぞれの足跡を重ねていく。それが散歩なんですよね。だけどオンラインには、そもそも「道」がない。ただ効率とスピードだけが加速しているというか。

堅田 オンライン化が「身体の振動」を消してしまった、「会話のなかの『散歩』が消えた」って栗原さんは書いてたけど、本当にそうで。さっき話していた授業中の私語とか居眠りとか、お互いの振動を共有する空気がなくなってしまった。そうか、だから私は「震え」や「痛み」を欲して狂ったように歩いていたんだと。

栗原 僕の知り合いにも散歩している人が増えました。自分じゃ気づかないんですけど、ひとの異常な行動を見ると、おかしいって気づかされますよね。この前、山形の大学の学科長とたまたましゃべっていたとき、最近何やってるという話になったんです。そしたら学科長が「夜、山へ行っているよ。5時間」と。

ー熊とか出たら危なくないですか?

栗原 山中をぶらぶら歩いていたら、手を合わせて何か呪文を唱えているひとがいたと。

一同 ギャーッ!

栗原 「マジで怖かったよ! 悲鳴あげちゃったよ!」といってました。

堅田 そういうのに出くわすぐらい、みんな歩いてるんだ。

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「カネが欲しくて受けました」

堅田 オンライン授業とは別に、大学のありようそのものが変わっちゃったなって感じることがあって。先日、「図書館の活用法を教員に聞く」という、学生のインタビューに答える機会があったんです。でも、話がいっこうに噛み合わなくて。なんでかなと思ったんですけど、大学の機能が違っちゃってるんですよ。私が学生のときは自分が所属していた研究科の図書館には実質24時間入れたし、寝泊りしている学生もいたし。

栗原 住んでる人いましたよね。大学って2000年代あたりからタバコも吸えなくなったりとか。早稲田大学でいえば、部室もなくなって、たむろする場所がなくなって。

堅田 学内でお酒ダメとかね。だから、大学がどんなところかっていうお互いの前提が違っていて、質問者の意図と私の回答がちぐはぐになっちゃったんです。

栗原 コロナになってからは、そもそも大学の校舎に行っていないわけで、特にいまの2年生くらいからは、また全然違う感覚になっているんでしょうね。

堅田 たしかに。何かが大きく変わっていってる…。そういえば、栗原さんが就活の履歴書に「死を賭して働きます」って書いてたって話あるじゃないですか。あれ、すごく笑っちゃったんですけど、実は私も、ある大学のポストに応募して、なんとか面接までたどり着いたときに「なぜ受けたんですか?」って聞かれて、「カネが欲しくて受けました。カネのためならなんでもします」って答えたんですよ。

栗原 社畜ってそういうものだろうって(笑)。

堅田 そう。

栗原 僕も、社会人ってそういうものなんだろうなと思って書いてました。毎回決めゼリフみたいな感じで、ここで絶対オトすぞ! と。予備校のバイトだったんですけど、こんな文面を読んだら感動するだろうなと思って。「命を投げうって働きます」というバリエーションもあったんですよ。でも落ちまくって。

堅田 私も落ちました(笑)。

栗原 同じようなことやっていたんですね(笑)。当時、同じく「死ぬ気で働きます」と履歴書に書いていた友だちが一人いて、俺だけじゃないって救われた気持ちになってたんですけど、堅田さんもだったんですね。

ティッシュの天ぷらはラッダイト

栗原 働くといえば、堅田さんが20代の頃にバイトしていた話を書いてるじゃないですか。ティッシュ配りのところとか、いいなって。ティッシュを天ぷらにして食ったんですよね?

堅田 そうなの。同じバイト先で流行っていたっていうか、一緒に働いていた子のアイデアで結構ハマってその子と何回かやりました。紙って食べられるんですよ。しかも天ぷらだからちょっと豪華じゃないですか?

栗原 天ぷらって何揚げてもうまいって聞いたことあるんですけど…ちなみに美味しいんですか? 

堅田 普通に美味しかった気がします。でも、テンションが上がっているから美味しいって思っているだけだよね、きっと。いま、紙を天ぷらにしようとは思わないから。

栗原 でも、そこがなんかいいなと思って。ちり紙を配っている人がちり紙を食べちゃう。働かされている道具を食っちゃう。天ぷらにしてやるぜ、みたいな。ラッダイト(機械打ちこわし。労働者が雇用主に要求をのませるため、生産手段を破壊する伝統的な争議行為)じゃないけど、そういうノリとしても面白い。

堅田 たしかにラッダイトだ!

栗原 それこそ自発みたいな。「食っちゃった」。

堅田 まさにあの瞬間は自発でしたね。美味しかったし楽しかった!

栗原 弁当工場の話もいいですよね。同僚のベトナム人女性たちが、しゃべるなっていわれても日本語わからないふりしてベトナム語でしゃべって、勝手に唐揚げをつまみ食いして、堅田さんの口にも放り込んでくれたり。

堅田 いま思い返しても、彼女たちのおしゃべりはかけがえのない「ノイズ」でした。上司っていうか、ちょっと偉い立場の中年女性が一応叱ったりはするんだけど、お構いなしにしゃべりつづけていてもそれ以上叱らない。結局みんなそのおしゃべりに救われていたんだなって。

栗原 規律的なものを破るすべは、おしゃべりなのかもしれないですね。

堅田 じゃあ、このおしゃべり会はいいですね! 会議や対話だと目的が決まっているけど、おしゃべりって、そこで何かが生まれる契機があるっていう。自発っぽい。

栗原 もちろん、真面目に経営者に立ち向かわないといけない局面ってあるんだろうけど、雇用されているだけじゃだめなんだ、違う生き方をするんだとなると、途端に「輸送」っぽくなっちゃうっていうか。

堅田 労働運動だったらこうあるべき、反資本主義だったらこうあるべきみたいなものって、動員になってしまうこともある。それが必要なときももちろんあると思うけど。

栗原 最初は目的のためだとわかっているんだけど、のめり込み始めると「こうあるべき、こうしなきゃいけない」がバーッと立ち上がってくる。

堅田 もうそれは新たな支配なんだよね。目的に資するかどうか、有用性や生産性という軸でジャッジされていないか。大杉栄がラサンテの監獄につながれていたときに白ワインを味わっていて、日本に帰ってきたらそれを若いアナキストに「ブルジョアが!」って罵られる話があるじゃないですか。私もそういう場に居合わせたら同じように罵っちゃいそうだなと思うんだけど(笑)、真のアナキストならこうあれ、とか、真のフェミニストならこうあれ、みたいな新たな道徳が立ち上がったとき、それを拒否することも大事なんだなって。

栗原 こうしなきゃいけないっていうものに抗う力。今回の堅田さんの本にも、そういう力がありますよね。

堅田 本当ですか。嬉しい!

栗原 タネさんというホームレスの女性が登場するじゃないですか。路上で生活していると女性の場合、性暴力の問題があったりする。そこで生活しているひとも男が多くマッチョだったりする。男の格好をせざるを得ないことが伏線になっていると思うんですけど、そういう過酷な中にあって生きるための技術を持っていたり、タネさんなりのコミュニケーションであったり、そういう力を身につけ、より大きなものにすることで、ホームレスとして暮らしていくことができる。カネにも男にも、その暴力にも支配されない。そういう抗う力をタネさん自身が発揮しちゃっているんですよね。

堅田 まさにそう! なんかね、タネさんは発揮しちゃっているの。「してる」んじゃなくて、「しちゃっている」んですよ。

栗原 しかも、タネさんは自分一人で生きているつもりかもしれないけど、そうじゃないんですよね。堅田さんの心に火をつけていっちゃうわけですから。タネさんから刺激を受けて、ある種、変身を遂げていく堅田さんの姿がみられてアガリながら読みました。

堅田 すごく嬉しいです! ありがとうございます。

セーファースペースづくりはなぜ難しいのか

栗原 堅田さんの本の最後に出てくるセーファースペースの話とか、あらためて大事な視点ですよね。

堅田 それなりのルールを自分たちで作るんだけど、常にポリコレ的な振る舞いをせねばならないような状況に転がりかねないじゃないですか。ジョージ・オーウェルの世界みたいな。栗原さんはどう考えますか? 実はこのこと、聞いてみたかったんです。

栗原 実際のところ、そういう空間づくりを友人たちとやっていても、うまくいったことはあんまりないかな。たとえばコンセンサス(合意形成)づくりもそうなんですけど、本当に全員で意思決定をするならば、声のでかい人や運動慣れしたひとだけで意見を決めてしまわないように、ルールづくりをしなければいけない。主義主張が違っても怒鳴られたり、殴られたり、バカにされたりせずに、自由に安心して意見を言えるようにしようというんですけど、気づくとそのルールづくりじたいが支配的な倫理になっちゃって。

堅田 そうそう、倫理になっちゃうの。

栗原 あるいは、なにかをやるとき、その場に参加できない人がいるじゃないですか。おカネがなかったり時間がなかったり、もしかしたら嫌なことがあって来られないのかもしれない。そんなとき、そのひとを怠け者と責めるよりは、まず来られない理由があるのではないかと想像してみませんかと。自由に安心して交流するために、だいじなことです。だけどそれが倫理になると話が変わってしまう。だれだれが来づらい、しゃべりづらいのはなぜか。おまえのせいだ、おまえのせいだと、日常的な取り締まりがはじまってしまう。安心するための空間が、いつの間にかより厳しいものになっていって…。

堅田 ルールや倫理が先走ると息苦しくなっちゃうこともあるけど、それでもその場をセーファーにしていくために努力し続けることはとても大事だし、手放しちゃいけないと思う。どうしたらいいのかなって。

栗原 なかなか、うまくいかないんだけど。

堅田 うん。難しい。

栗原 自分の倫理や正義に疑いをもたなくなると、自分たち自身が支配者になってしまうから、そこを意識しましょうよといい続けるしかないのかな。そのうえで、いくぜ、暴動、やっちゃった。そういうことをいうと怒られたりしますけどね。

堅田 私も「正しい」人から怒られることがありますが、栗原さんはもっと怒られてそうだなって思っていました(笑)。

栗原 めっちゃ多いですね(笑)。怒られたら、とにかく「すいませんでした!」。でもいくら怒られても「やっちゃった」を手ばなさない。だいじなのは正しいことを選択したり、させられたりすることではなくて、おのずと発する力、自分でも制御できない力に身をまかせることじゃないかと。自発の芽を潰させない。セーファー、だいじ。

「たたかうべきだ、逃げるために」

堅田 これまで栗原さんは海賊の話をちょくちょく紹介してきたじゃないですか。

栗原 海賊というと、フック船長みたいな怖い人がバンバン商船に大砲を撃ち込んで、手下に命令して宝物を奪い取るというのがイメージしやすいんですけど、ハキム・ベイことピーター・ランボーン・ウィルソンの研究によると、全然そんなことないんですよね。とにかく規律を守れ、船長の命令に従わなかったら、海に放り投げられてサメの餌にされるというイメージは、実は海賊じゃなくて商船の船長なんだと。むしろ、海賊はそういう専制権力があるからダメなんだといって、水夫に強権をふるう船長をやっつけたり、毎日、定期的に働かされるのは非人間的なことだと思うところから始まっている。じゃあ海賊は何をしてるのかというと、1年に2~3回働けばいいでしょうと。必要があれば、弱そうな商船や漁船を標的にして略奪にでる。イギリス商船に「自分たちはイギリス船です」と嘘をついて近づいて、いきなりドクロマークの旗を掲げて、ビビらせて降伏を迫る。敵が強ければ、とにかく逃げる。

堅田 「パイレーツ・オブ・カリビアン」のモデルにもなった海賊のジョン・ラカム、すぐ逃げるんですよね。「逃げる」って、いいですよね。

栗原 「たたかうべきだ、逃げるために」っていうんですよね。あれいいなあって。堅田さんもハキム・ベイ『T.A.Z. 一時的自律ゾーン、存在論的アナーキー、詩的テロリズム』(インパクト出版会)を参照してると思うんですけど、さっきでたバイトの話、ティッシュを天ぷらにするとか同僚のおしゃべりとかにも、そういう自律空間、T.A.Z(*注2)っていうのかな、海賊的なものが現れていますよね。上から「従え」っていわれても、そうじゃない場を自分たちでつくってしまう。よく見たら、日常的にもうやっちゃってるじゃんっていう。

堅田 まさに一時的自律ゾーン。…そういえば私ね、小学校のときだったかな、祖先がなんだったのか親に聞いてみましょう、みたいな宿題があったんですよ。それで父に聞いたら「海賊」っていわれたんです。

栗原 うおお~!

堅田 当時は「海賊」なんて恥ずかしくて宿題に書けないし、農民に対する憧憬があったから結局ノートには「農民でした」って書いて提出した気がします。

栗原 うちの祖先はどう転んでも農民です。わあ、めっちゃいいですね! 祖先が海賊!

堅田 たぶん父は、はぐらかすために適当にいっただけなんです。父は亡くなってしまったから、今となっては嘘か本当か確かめようがないんだけど、もうどっちでもよくて。栗原さんの本に海賊の話が出てくるたび、嘘でもいいから誇らしく思おうって、その話を思い出すんです。

*注2:The Temporary Autonomous Zone’Ontological Anarchy’Poetic Terrorism の略称

(2021年9月9日収録、構成:丹野未雪)

栗原康(くりはら・やすし)
政治学者。東北芸術工科大学非常勤講師。専門はアナキズム研究。著書に『大杉栄伝 永遠のアナキズム』『はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言』『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』『死してなお踊れ 一遍上人伝』ほか多数。





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