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耳かきをめぐる冒険 第八話 すずめの耳かきと金子みすゞの詩の世界(みんなちがって、みんないい?)

みなさんこんにちは。タバブックススタッフの椋本です。
この連載では、僕の耳かきコレクションを足がかりに記憶と想像をめぐる冒険譚をお届けします。
さて、今日はどんな耳かきに出会えるのでしょうか?

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すずめの耳かき
かき心地 ★★★☆☆
入手場所 近鉄奈良駅前の商店街

近鉄奈良駅前のひがしむき商店街で購入したすずめの耳かき。えんじ色の生地の切れ端を縫い合わせて作られた温かみのあるデザインが特徴で、口ばしや頬の丁寧な仕上げからは作り手の美学を感じる一本だ。

ところで、鳥といえば、金子みすゞの『わたしと小鳥とすずと』という詩を思い出す。「みんなちがって、みんないい」という日本人ならば誰しもが知るフレーズが登場する詩である。このフレーズはしばしば”多様性”や”自分らしさ”という議論で引用されるけれども、このフレーズを目にするたびに、本当にこの詩の文脈を理解した上で引用している人はどれだけいるのだろうと思う。

このフレーズを引用した議論のほとんどが「だからこそ一人一人の個性を認めなければいけない」というように”人間どうしの関係性”の文脈に引き寄せて結論づけられる。しかし、この詩のすごいのは、「人間(わたし)」と「動物(小鳥)」と「モノ(すず)」という存在形式を超えた三者をフラットな関係としてあたりまえのように描く、金子みすゞの驚くべき平衡感覚であると僕は思う。おそらく金子みすゞは人間関係の比喩としてではなく、本当にこの三者を「みんなちがって、みんないい」と感覚していたのではないかと思うのだ。というか、この詩にはまさにそのことが書かれている。だから「これは人間どうしの比喩である」と”書かれていないこと”を連想し引用してしまう僕たちは、おそらく何らかの概念に思考をジャックされているに違いない。

こうした金子みすゞの動物やモノに対するフラットな視点は、例えば「環境保全」や「生物多様性」「廃棄物処理」を目標に掲げるSDGsの取り組みを連想するけれども、一見エコロジーに見える西洋の思想はあくまで人間を中心とした概念であり、SDGsは”人間が持続的に生存するため”の目標にほかならない。だから西洋の思想を通して金子みすゞの詩を見ると、すずと小鳥はあくまで”比喩”としてしか理解し得ない。僕らの思考をジャックしている正体はまさにこの西洋由来の”人間中心主義”であろう。

しかし、である。日本人の自分の感覚からすると、「小鳥」と「すず」と「わたし」が「フラットな関係にある」という感覚がなんとなく理解されてしまうから不思議である。それもそのはず、例えば「一寸の虫にも五分の魂」とか「蜘蛛の糸」のような仏教観や、米粒ひとつ・道の脇の石にさえ神が宿るというアニミズム的な考え方、あるいは”ものに魂が宿る”という概念が存在するように、日本人は古来より動物やモノに平等、あるいはそれ以上の価値が宿ると「本気で」信じ、しかもそれをあたりまえのように受け入れて生きてきた。このモノや自然に対する独特な平衡感覚は、西洋の概念が拡散された今日でも、僕たちの根っこの部分に脈々と流れ続けているというわけだ。

さらに続けると、例えば西洋における自然観は、 "conquer(征服する)"から"conserve(保護する)"の対象へと変わってきたが、これらはあくまで人間中心的な考え方である。本当に重要なのは自然も人間も"consist(そこにある、共にある)”というフラットな感覚、あるいは畏れのような感覚であるということは、震災や天災に度々見舞われてきた日本人ならば容易に理解できるだろう。

この"consist(そこにある、共にある)"というキーワードは、金子みすゞの詩のコアを構成している感覚であると思う。鳥が苦もなく大空を飛んでいること、すずがきれいに音を響かせること、それがあたりまえにそうであることへの不思議。すなわち「ここに存在すること」への驚きのような感覚である。

さいごに、ほぼ同時期に書かれた『ふしぎ』という詩を引用してみよう。

わたしはふしぎでたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。

わたしはふしぎでたまらない、
青いくわの葉たべている、
かいこが白くなることが。

わたしはふしぎでたまらない、
だれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。

わたしはふしぎでたまらない、
だれにきいてもわらってて、
あたりまえだ、ということが。

こうした「目の前のものがあたりまえに存在することが実は”あり得がたい”ことである」と捉え直す視点の転回は、僕たちが普段見えていない(あるいは見ようとしない)場所にある世界の奥行きへのアクセスを可能にする。詩の言葉をとおして彼女の透明な目線にふれると、なにげない日々の景色が少しだけ豊かになるような気がしてくる。

すずと小鳥とわたしと…自分の目の前に存在していることの”奇跡”への驚き、あるいはこの世界に存在するすべてのものへの”いのり”のような感覚こそが、彼女の詩の芯の部分にこだましているのである。

(椋本)

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