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仕事文脈コラム わけられない仕事と生活/宮川真紀(仕事文脈vol.9)

 ごはんと仕事特集、ということで、ふだん仕事のときに何を食べているか記録してみることにした。特集の最初と最後の「#ごはんと仕事」ページです。編集スタッフにも参加してもらい、Instagramに食事写真をアップしていったのだ。あ、インスタだからって盛ったりしてませんよ。ふつうの、毎日の食事を撮ってもらいました。そしたらやっぱり見栄えは微妙で、つまりキラッキラしてたりはしないごはんが続くのでした。


 それでも、超まめに手作りしてたり、がっつりした定食がルーティンだったり、適当な残業メシとか、まあ人それぞれである。そしてやってみると「これって仕事のごはんだろうか」と迷うこともあった。なんとなくイメージしてたのは、仕事中のランチである。でも家で食べながら資料読んだり、休日仕事で知り合った人のイベントで飲んだり、あと昼のお弁当を考えて作る朝ごはんっていうのも、「ごはんと仕事」と言えなくもないんじゃないか。結局、働いている私たちには、まったく仕事と関係ないごはんってほとんどない。仕事とごはん、つまり生活は区別はできないんだな。というのが感想だ。


 区別というのとつながるが、この特集で頭にあったのは「食うために働く」「ライフワークとライスワーク」などのことばだった。あと「稼ぎと勤め」か。すみません、こういうの嫌いなんですよね、私。食うためって、それ目的? いや、食べるのは生きるため、というか本能だし。ライフだのライスだのにいたっては、やりがいのあることこそがちゃんとした仕事で、食い扶持を稼ぐことを卑下してるみたいで。
 こうやって働き方を分類するのって危険なものにつながっていく気がする。「食うために稼ぐんだから、内容になんて疑問持たず働けばいい」、逆に「意義があってやりがいのある仕事ならお金は二の次、身を賭して働く」という話になりやすいんじゃないか。だいたいひとりがこの両方を、こっちは金のため、こっちはやりがいのためにって、そんなに働ける?「#ごはんと仕事」写真の例のごとく、仕事は生活と分けられない。ごはんを食べる体は、ひとつ。インスタ映えするごはんに生きがい見出し、そこに写らないところは見ないことにしておく、そういうのが、あらゆることを不自由にしていると思う。

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