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耳かきをめぐる冒険 第七話 赤い雄鶏の耳かきと会話についての一考察

みなさんこんにちは。タバブックススタッフの椋本です。
この連載では、僕の耳かきコレクションを足がかりに記憶と想像をめぐる冒険譚をお届けします。
さて、今日はどんな耳かきに出会えるのでしょうか?

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赤い雄鶏の耳かき
かき心地 ★☆☆☆☆

入手場所 実家の押し入れ

実家の押し入れで発見した赤い雄鶏の耳かき。工芸品のような繊細さと金メッキの高級感が特徴で、耳かきの素人でも一目見ればただの耳かきではないと気づくはず。こんな珍しい耳かきどこで手に入れたのだろう。今度実家に帰ったら両親に聞いてみようと思う。

ところで、雄鶏といえばフランスのシンボルであるが、フランスといえば先日銀座のトリコロールという老舗の喫茶店で作曲家の知り合いとお茶をした。お互い気持ちよくおしゃべりをしていると、「こんなふうに会話がどんどん流れる人と、全く会話が続かない人って何が違うんだろうね」という話題になった。そこで思い出したのが、作家の朝吹真理子さんが話していたこんな言葉だ。

”会話っていうのは、鳥がさえずりあうようなものだと思う。だからそこで交わされる言葉の意味はそんなに重要じゃないのかもしれない。”

「言い得て妙」とはまさにこのことである。会話をしているとき、僕らはまず相手が話している空気を感じ、相手の表情やちょっとした仕草、声のトーンや抑揚に意識的にも無意識的にも反応している。そしてその次の段階で「言葉の意味」を認識しているのだ。だから、過去の会話を思い出してみると、「何を話したか」という会話の内容はほとんど覚えておらず、むしろ「楽しかったなぁ」とか「盛り上がったなぁ」くらいのあいまいな感覚が残っているだけであることに気がつく。それでも僕らはその会話に満足する。

そう考えると、会話は言葉の意味を交換しているというよりも、むしろ「わたしの音」と「あなたの音」をセッションしているようなものであると言える。会話をするとき、僕らは一つの音を発していて、お互いの音どうしが美しく重なり和音になっていればその会話は流れるように続いてゆく。反対に、話が続かないときはお互いの音が不協和音になっているということなのだ。

「気持ちの良い会話っていうのは、お互いの音を合わせて一曲の音楽を奏でているようなものなのかもね。」

あくまで比喩でしかないが、妙にしっくりくるから不思議である。

もしもあらゆる人どうしが気持ちよく音を奏であうことができたなら、この世界は一曲の美しい交響曲となるだろう。しかしそれは絵に描いたモチでしかない。この世は耳を塞ぎたくなるような不協和音がそこかしこで鳴り響いている…

とはいえ、そんな世界のただなかにいながらも、できる限りいろんな人と美しい音楽を奏でようと試みることはできる。そのとき重要になるのは、自分が発することのできる音域の幅、そして相手の音をしっかりと聴きとることができる耳である。

自分が知っている唯一の音を大声で叫ぶのではなく、周囲の音に耳を澄ませ、チューニングを重ねながら、自分も相手も気持ちの良い和音を見つけてゆくこと。そこには思ってもみなかった美しい音楽が生まれるかもしれない。

人気の少ない喫茶店で僕らがコーヒー片手に奏でた音楽は、まだ見ぬ景色を予感させるような、そんな音色であった。

(椋本)

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