いつか私も天竺に行けますか/餅井アンナ

「年を取るとね、生きるのが楽になるよ」

 一回りと少し年上のタキヤマさんが発したその言葉は、まだ大学生の私にとって、どこかとてつもなく遠い国の話みたいに聞こえるものだった。「砂漠を越えた先に天竺がありますよ」と言われるのと同程度には途方もない、夢のような話。当時の私は生きるのが全然楽じゃなかった。だけどそれを聞いてからというもの、大きな波に飲み込まれそうになるたびに「年を取ったら楽になれる」と自分へ言い聞かせるのが習慣になった。意味はよく分かっていなかった。

「楽になるっていうのは、余裕ができてくるってことですか」
「違う、その逆。年を取るとね、どんどん余裕がなくなっていくんだよ」
「余裕がないのに、楽になるんですか」
「そう。余裕がないから、目の前のこと以外は全部どうでもよくなってくるの」
 今だって、るいちゃんのお世話して働いて家事やって、他のことに頭を使う時間なんかないもん。若いときはしんどかったけどね。タキヤマさんの隣でキラキラのゴムがついた頭が揺れる。「ママたち、るいちゃんの話してたんじゃない?」「うん、してたよ、してた」。るいちゃんはにっこりすると、食べ途中だったスパゲッティの皿に再び向かい始めた。丸い持ち手のプラスチックフォークを握って、迷いのない野性的な動きで麺を口の中へと運び入れていく。私の皿の中身は一向に減らない。銀色のフォークでうまく麺を巻き取ることができずにいて、トマトソースを浴びたスパゲッティが、どぅるん、どぅるん、と何度も半端な渦を描いては解けていく。
 食べ終わりも、るいちゃんの方が私よりも早かった。「ごちそうさまでした」のコンマ五秒後くらいには興味の対象が移っているのか、「るいちゃんのお友だち見せてあげようか」と言いながらリュックを開け、小さいクマや女の子の人形や毛糸で出来た謎の生き物をテーブルの端に並べ始めた。「ちょっと、お姉ちゃんまだ食べてるでしょ。待ってあげなさい」「はーい」。生きている時間が違う。タキヤマさんはとうの昔にサンドイッチを食べ終わっていた。

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