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『夢を描く女性たち』翻訳者エピソード/尹怡景

昔は当たり前に思っていたことが、もはや当然ではない、退出されてしまった古いものになっていることがある。
黒人は白人専用のトイレと洗面台が使えなかった時代があったように。
冥王星が惑星から除外されたように。

幼い頃、本棚にしまっていた偉人伝には女性がほとんどいなかった。
今覚えている人だけを挙げるとヘレン・ケラー、ナイチンゲール、申師任堂(シンサイムダン)*1 。もう少し記憶をたどってみればキュリー夫人くらいかな?
とにかく共通しているのは彼女たちが完全な一人の「偉人」として描かれていなかったということだろう。

例えばヘレン・ケラーは、ヘレンが井戸端で「ウォーター」と叫んでいたところで終わっており、その後のヘレンについては、いくつかの文章でざっとまとめてあるだけだった。ナイチンゲールも灯火を持った献身の天使にすぎなかったし、申師任堂も栗谷・李珥を立派に育てた良妻賢母としてのエピソードを中心に書かれていた。キュリー夫人は言うまでもない。マリー・キュリーという名前の偉大な科学者というよりは、タイトルから「キュリーの奥さん」だったから。
幼い頃に接した常識と文章は一人の人生でかなり長い時間にわたって大きな影響力を持つ。私は思わず女性は男性より劣った存在、従属する存在だと考えていたのかもしれない。男性たちだけの偉人全集をどうしておかしいと思わなかったのか。
実は人類の半分は女性なのに。

*1  申師任堂(1504〜1551)朝鮮中期の学者だった栗谷・李珥の母。偉人伝では主に栗谷を育て、夫を優しく見守った良妻賢母の姿が描かれている。しかし、彼女は絵と詩に優れた才能を持つ天才的な芸術家であった。当然のことながら、そのような事実は、いくつかの文章にまとめられているだけだ。

そして悟りは一瞬にして訪れた。
2006年のある日、突然惑星から外された冥王星のように、井戸端で「ウォーター」と叫んでいたヘレンのように。
私は思っていたよりはるかに多くの女性が男性の陰に隠されていることに気づいた。例えば、カミーユ・クローデル、ゼルダ・フィッツジェラルド、そしてジェンティレスキ。

数年前、カラヴァッジョを見るために行ったフィレンツェ・ウピーチ美術館で、私が特に心をひかれた作品はアルテミシア・ジェンティレスキ(1593〜1620)の「ホルフェルネスの首を斬るユディト」だった。ユディトを描いた絵画は数え切れないほど多いが、ジェンティレスキのユディトは何か違っていた。そこには、どこかためらうかのように、恐怖におののく表情をした弱い少女ユディットはいなかった。「敵将の首を切る」という目的に向かって揺るぎなく突進する英雄ユディトがいるだけだった。

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「ホルフェルネスの首を斬るユディト」(ウピーチ美術館にて筆者撮影)


私は家に帰ってからそのユディトについて調べた。驚くべきことにジェンティレスキは女性画家で、女性が男性の体を描くことが禁忌とされた時代に思い切って男性の体を描いたことで世間から娼婦扱いされ、同じ画家だった父親の助手からレイプされたという。彼女は自分がレイプされたことを法廷で証明しなければならなかったが、逆に男を誘い出した悪女と非難され、隣人たちはジェンティレスキに不利な証言をしたという。2度の性犯罪記録があった加害者は軽い処罰にとどまったが、被害者だったジェンティレスキは拷問を受け、無念に刑務所に入れられ、それによって精神的かつ肉体的苦痛を受けたという。そのときやっと、彼女のユーディットが少しは理解できたような気がした。同時に、17世紀のイタリアの女性も21世紀を生きる私たちも依然として同じ痛みを共有しているんだなと思った。世間は彼女の才能よりはスキャンダルだけに注目し、作品は相対的に低く評価されてきたが、最近になってようやく再評価されているということまであまりにも今の女性とそっくりではないか。

業績が相対的に低く評価され、夫や彼氏に文章を盗まれ、誰かの妻として記憶されてきた多くの偉人たち。私は自分が読んでいた世界が実は半分だけだったことに気づくようになった。今や世界の半分を消していた偉人伝が当たり前ではない時代なのだ。

誰かの一言が人生を変える鍵になることもある。
一人のロールモデルが人生の羅針盤にもなるように。先に道を歩んだ先輩たちの話は、時には勇気となり励みになる。それらは一人の少女が人生で重要な選択をする岐路に立った時、そっと背中を押してくれる道導になってくれるかも知れない。「私は女子だから」などの言葉で自分の限界を決めつけず、もっと自由に選択できるきっかけにもなるだろう。

この本を訳しながら、私たちがこれまで気づかなかった、男性の影に隠されてきた偉大な女性たちの話を伝えることができて、心から嬉しいと思った。彼女たちの話は国境を越え言葉を越えて今を生きる私たちに深い響きを与えてくれるだろう。

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尹怡景 Yoon Ekyung
韓国・ソウル生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科修士課程修了。専門は文化人類学。慶應義塾大学大学院非常勤講師。言葉で韓国と日本の心をつなげたい人。


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