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「家庭料理」について ―― 自分、そして誰かとの“ホーム”を 形成するために/白央篤司(仕事文脈vol.20)

 「家庭料理」という言葉は、なかなかに厄介だ。

 まず「あなたにとっての家庭料理といえば何ですか?」という質問をしてみたい。私なら、実家でよく出てきたシャケの粕漬の焼いたの、ネギ入りの玉子焼き、焼きうどん、湯豆腐……なんてところがパッと浮かぶ。自分の育った環境で出てきたものが浮かんでくる。

 一方で世の中には、「家でよく出てきたかどうか」は一切関係なく、「自分が〝家庭的〞だと思う料理」を家庭料理としてイメージする人もいる。その代表選手として長年挙げられてきたのが肉じゃがではないだろうか。キンピラやヒジキの煮たのを思う人もあれば、ハンバーグやロールキャベツなんかを思い浮かべる人もいるだろう。

 ちなみに「家庭的」を辞書(新明解 第7版)で引いてみると「家庭の円満や家族の健康などを何よりも大事にする様子」とある。もうこの時点で厄介である。「何よりも大事に」というところに献身的なものが読み取れはしないだろうか。自分の意志や都合よりも、家族の意向や栄養バランスを重視、優先する誰かの姿が「家庭(的)料理」という言葉からは見えてくるときがある。

 「家庭的な料理」というのは、本人がそうしたくてやっているなら何の問題もない。付け加えると、される家族側も喜んでいるなら尚言うことなしだ。問題は「家庭料理って、そういうものでしょう?」「家庭料理はこうあるべきもの」となった場合である。

 家庭料理という言葉が厄介と冒頭で言ったのは、家庭料理観の押し付けや齟齬が起こりやすいからである。純粋に「自分の家の料理」ということなら話はシンプルだが、それが「家庭的な料理」を意味すると、話はややこしくなりやすい。そして世の中、このふたつをごっちゃにしたまま「家庭料理」についての話が進んでしまい、もつれることが多いように感じている。

 たとえば玉子焼きとひとつ取っても、そのありようは千差万別である。私が先に挙げた「うちのネギ入り玉子焼き」の形はかなりアバウト。私の親は玉子焼き器は使わず、フライパンでざっくりまとめて作っていた。「毎日そんな丁寧にやっちゃいられない、味は一緒!」「売り物じゃないんだから」が口ぐせで。いつしかそういうものだと私も思うようになり、現在私も同じような玉子焼きを作っている。

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