見出し画像

タバブックスの本棚から08―脱コルセットとジェンダー・オリエンタリズム

 タバブックスの最新刊『脱コルセット:到来した想像』がおもしろい。おもしろすぎてこの連載1回分では足りないため、3回に分けて語らせてほしい。

>第1回はこちら  >第2回はこちら

 第3回となる今回は、私がこの本で一番好きな部分(4章,94~97ページ)について書きたい。ここでは韓国の脱コルセット運動に対する、他の社会からのまなざしが話題になる。

ほかの文化圏での苦痛に対する抵抗は、文化の「違い」ということばで自文化と区別されたときにだけ、意義深くとらえられる。……欧米社会のメディアは、脱コルセット運動をK-ビューティー大国かつ整形中毒社会の韓国ならではの特殊な動きだと紹介する。しかし、コルセットはまさにその欧米社会で、女性の服飾の一部として、あばら骨を折り内臓を破裂させていた道具だったのであり、いまだかたちを変えて存在している。(4章 美しさから 痛みへ)

 脱コルセット運動を「K-ビューティー大国かつ整形中毒社会の韓国ならではの特殊な動き」として見なす欧米メディアは、韓国の文化や慣習などに、自分たち西洋にはない特殊な女性差別を見出し、脱コルセット運動をその特殊な女性差別に抵抗する運動として捉えている。つまり韓国にある女性差別を、自分たちの社会にもある女性差別とつなげて考えるのではなく、「他者化」してしまっている。このように他の社会に存在する女性差別を、その社会の文化に特殊なものとして見るまなざしは数多く存在する。そしてそのような視線は、いわゆる先進国社会(西洋)から、そうでない社会(東洋)に対して向けられることが多い。いわゆるジェンダー・オリエンタリズム(*注)である。
 だが西洋もまた、見た目の美しさのために女性の身体に苦痛を加えるコルセットやハイヒールを生んだ社会だ。『脱コルセット:到来した想像』は、西洋にある美のための女性の身体的不自由は、他者化された韓国のそれと共通しているではないかという事実を突きつける。自社会にある女性差別を棚上げし、他社会の女性差別を指差して「後進的だ」と言ってしまうような暴力的な態度を、この本は拒否する。だから私はこの部分が好きだ。

 それだけではない。この本は、欧米など他の社会から韓国社会が他者化されることを拒否すると同時に、自分たちが他の社会に対してそのようなまなざし方をすることを拒否する。4章で著者は、脱コル実践者のヘインが11センチのヒールを履いて「自分の足を虐待してました」と話すのを聞いて、かつて中国で行なわれていた纏足を連想する。つまり著者は、中国という他の社会で行われていた纏足を、自分たち韓国社会にはない特殊な女性差別の「奇習」として他者化して見ることを拒否するのだ。そして纏足をした中国人女性の経験を、「美のための身体的苦痛」という点から、まさにヘインたち韓国人女性の経験と結びつけて見るのである。

欧米社会は、ハイヒールと纏足には「選択の自由」という違いがあると頑なに信じている。他者化は政治化する可能性がある。ハイヒールと纏足は移動性への制限とそれによる苦痛、あわせて、それを美しいと賛美する点で、さらに女性たちの積極的な欲望によって維持されていた点で、その原理としくみは同じだ。(4章 美しさから 痛みへ)
脱コルセット運動のアプローチ方法は、異なる文化、そこから生じる運動にもあてはめることができる。時代と様式を超えて、「身体の苦痛」という連結点を見通すことができるのだ。(4章 美しさから 痛みへ)

 私(たち)が韓国の脱コルセット運動に連帯しようとするとき、4章で強調されるこれらのことばを深く心に刻まなければならないと思う。なぜなら私(たち)は、ジェンダー・オリエンタリズムを植民地主義に利用したという歴史的文脈を持つ社会に生きているからだ。日本は帝国期に、纏足を「清の野蛮な奇習」として見なした。そして日本が統治していた台湾を「清の野蛮な奇習」から「解放」し、「文明化(=日本化)」するという植民地政策を行なった。「文明開花した」日本と「遅れた」清・台湾という二項対立を念頭に、清・台湾を他者化し、纏足という慣習を特殊な女性差別として「遅れている」ことの証左とし、統治者として台湾の纏足に介入したのだ。

 かつて他社会の女性の足に加えられていた纏足による苦痛を植民地支配に利用した日本で、2019年、女性がハイヒールやパンプスによって自らの足に加えられている苦痛に気づき、#KuToo(靴/苦痛)という運動を起こした。
 韓国に対しても植民地統治を行なった歴史を持つ日本に生きる個人として、私(たち)が韓国の脱コルセット運動と共鳴しようとするとき、その連帯に最も必要なのは、自らの身体の苦痛が他者化されることを拒否すること、そして自分が他の社会にある身体の苦痛を他者化することを拒否することではないだろうか。


(*注)
 例えば、アフリカ諸国でFGM/C(女性器切除)が行なわれていることや、インドでサティー(寡婦殉死)やダウリー(持参金)殺人が起こっていること、アフガニスタンで女子教育が停止されていること。私たちはそのような「後進的な」社会の文化や習慣を、私たちの社会ではありえないものとして軽蔑しがちだ。だが、そのまさに自分たちの社会で、そうは法という前近代的な中絶手術が行なわれていることや、DV殺人が起こっていること、医科大学で女性に不利な入試が行われていることは見過ごされる。見過ごされなかったとしても、それらが「インドの因習」といった言い方と同様に「日本の奇習」として捉えられることはないだろう。
このような非対称性を、嶺崎寛子(2019)は、エドワード・サイードの「オリエンタリズム」を援用し、ジェンダー化されたオリエンタリズム、すなわち「ジェンダー・オリエンタリズム(Gendered Orientalism)」ということばで説明した。ジェンダー・オリエンタリズムは以下のように定義される。

 西洋と東洋を二項対立的に捉え、西洋が東洋を他者化し、その「文化」「宗教」「慣習」などに自分たちの世界にはない独特/特殊な女性差別や女性蔑視を見出し、それを「遅れている」「女性差別的である」ことの証左とするようなまなざし(「イスラームとジェンダーをめぐるアポリアの先へ」,『宗教研究』93巻2号)

 今回で最終回のつもりだったが、次回はこの本に関連して、8章に登場するネットフリックス映画『おとぎ話を忘れたくて』について考えたことを書く予定。

(げじま)

お読みいただきありがとうございます。サポートいただけましたら、記事制作やライターさんへのお礼に使わせていただきます!