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無知についての備忘録。

妹が今ポーランドにいる。

2月13日に日本を発った。語学留学的な何かだそうだ。あまり詳しいことは聞いていない。半年したら帰ってくるというのは聞いた。

「戦争が始まった」という言葉を実感することはできなかった。文字通り、遠い場所のお話だった。


大学受験に使った社会科目は日本史だった。世界史はだいたい中学校までの知識しかないし、地理は嫌いではないけど苦手だった。

ポーランドが戦地の隣にあることを知ったのは、その日の家族LINEの会話の中だった。


「無知であることを自覚する」という行為は、自分が好きでやっていることだと思っていた。
知らないことを知るのは面白い。世界の見え方が変わる。多分長いであろう私の人生において、楽しいと思えることが増える。誰かと分かち合えるものが多くなる。それは幸福なことである。
それを享受するための誠実で崇高な行為だと信じている。今でもそれは変わらない。

でも今回は、面白そうとか、楽しそうとかではなかった。
ただ現状を、過去を「知らない」という事実だけがのしかかる。「知らなくていいのか」という言葉が過る。毎日流れるニュースや特集を見ても、知った気にはなれなかった。妹からはルームメイトとの楽しそうな自撮りや、部屋の蛍光灯が古くて発火の可能性があることなどがLINEに送られてきていた。


出かけたついでに本屋に寄った。
新書コーナーを見ていると、Twitterで「この事態になってからこの新書が売れてます」(意訳)と紹介されていた、

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書) https://www.amazon.co.jp/dp/B082KFMK31/ref=cm_sw_r_apan_glt_E8NEAADBE130DKBP9DYJ

が本棚にあった。帯を見ると、2020年新書大賞1位の文字。確かツイートのツリーに、「筆者も今の為に書いたんじゃないだろう。」とか、売れていることに対して「学ぼうとする人がまだいるのだ。」みたいなことが書かれていたのを覚えていたので、なるほどこれを読んだらわかるんだなと、そのまま購入。読むことにした。

前述したように、自分は世界史にも地理にも疎い。
前提知識のない自分にとって、この本は非常に難解であった。だからよく分からない単語があれば、その都度立ち止まって調べながら、本を読み進めて行った。その作業自体は、「自分は今、新しい知を能動的に蓄えているのだ」という自己効力感と快感を伴うものだった。
漠然とした不安を拭ってくれるような、何かがわかりそうな予感がしていた。
独ソ戦。
史上最大の陸戦。その様相は外交で解決しうる通常戦争ではなく、互いの世界観の元戦争を肯定した世界観戦争であり、相手を滅するまで終わらない絶滅戦争である。だからこそ、地獄と称されるほどの惨状になったのだという。
戦争の発端から終結まで、正確な日付や戦闘内容、各師団の構成や、さらには昨今の史学的な研究事情までもが詳述されていた。




5日かけて、読みきった。


結論から言えば、今起きていることが理解できた、ということはなかった。


「独ソ戦」という大きな「物語」を読んだだけだった。

一重に自分の無知によるものだ。凄惨な地獄を、今に繋がる「史」として捉えきれていないだけ。この本を読んで今の情勢に対しての理解を深めるためには、少なくとも今の私より何かを知っていなければならなかった。たかだか200ページ程の本一冊。それも全文を完璧に理解しきったわけでもない。この本をこぞって買った人の多くは、きっと自らの知識を補強するものとしてこの本を読んだのだろう。部屋で1人、浅学を恥じた。



では何を、無知な私は得られたのだろう。

ふと、天井を見ながら考えた。

読了して絶望し、もう一度本に思いを馳せた時、脳裏によぎったのは、
  「千」  「万」  「〇」という記号であった。
「絶滅」「収奪」という単語であった。
「飢餓作戦」という人に使うに値しない四文字の熟語であった。
これらの言葉が、深く、体に焼き付いているのを知った。

「ペンは剣よりも強し」がスタンダードとなり、
時に言葉が人を殺すことを誰もが知りうるこの時代に、今更言葉の持つ可能性を強調したい訳ではない。

けれど、この言葉によって結び付けられた「現実」が、言葉にされるよりも先に「行為」が、「結果」が、今世界に顕れつつあることに気づいた。

この本で語られた言葉を、過ちと戒めに満ちたこれらの文字の羅列を、現在を語るのに用いることなど、あってはならない。
未来に生きる人に、そんな言葉を私は語りたくない。

事実を知らず、言葉だけを受け取った結果
世界について自分がどうありたいか、少しだけ自覚することができた。

無知の私が得ることが出来た、唯一のものだと思った。


これはあくまで個人的な体験であって、
決してこの本でなければならなかったわけではない。
大層な言葉を連ねて大袈裟に見せてはいるが、人間1人の普遍的な感想だと自分でも思う。
無知であり続けることを肯定するわけでもない。知らなければならないことは必ずある。
なんなら遅いと怒られるかもしれない。

でも、

募金をした友人がいる。
芸術を通して支援をしようとする先輩がいる。
毎日抗議の声を挙げる同い年がいる。

その中で私は、Twitterで見かけた本を読んだ。
それをノートに、言葉にして書いてみた。
ただ、それだけの抵抗である。

今起きていることを「本当に」知るために、さらに色んな情報を集めていく。
本も読む。
もしかしたら、この本に書いてあったことは、思っていたよりも現状に関係が無いのかもしれない。その逆もまた然りである。
それでもこの『独ソ戦  絶滅戦争の惨禍』は、無知の自分にとって、特別な本になった。


そもそも、妹がポーランドに居なければ、本すら手に取らなかったのかもしれない。
当事者意識を持てと人は言うけれど、関わりを持つ誰かが近くにいないと、やっぱり難しい。

家ではあまり妹とは話さないのだが、半年後に帰ってきたら、たくさん話を聞こうと思う。
廊下の電気の老朽化でボヤ騒ぎが起きた時のことと、トッピングが山盛りの大きなホットドックを食べた時のことと、すぐ隣で起きていた戦争のことを。



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