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「没」頭をめぐる言葉あそび――頭を硬くせよ

今年は長い一年だった。
2015年、2016年、2018年、そして2022年まで、年が過ぎるごとに時間の流れは加速していた気がする。だけど今年は、とても長かった。

時の流れの速さを実感するのは、どういうときだろう。
日々がせわしなく、忙しく、そして充実していると感じられるときに、時は速く進む。それが一般的な理解だろう。忙しいのに充実していないという実存的不満は、私たちの何かに日々、渇きをもたらす。

だが、のんびりとした時間も特定条件下ではこのうえなく速く進む。日曜日の夜。昼休憩。誰しも一度は抱いたことのある問いがあるはずだ――「なぜ、休日は一瞬で終わってしまうのか」。いや、休日には休日で、やらなければならないことはきっとたくさんあるのだ。洗濯や家事をすることに、趣味に時間を費やすことに、睡眠に。みな忙しい。

一般的な社会的リズムにそくして、平日も休日もつねに忙しいのだとしたら、もはや何かに「没」頭するほかない。好きなことでも嫌いなことでも、趣味でも仕事でも、「没」頭している間は時間の流れとは無縁だ。時の流れというもの自体を感覚の対象から外して、別のものに思いを馳せること。

それを世間は現実逃避と呼んでいるのかもしれない。だが、「常道」――その道は、平面のエスカレーターのようにつねに動き、私たちをどこかへと運ぼうとする、「動く歩道」のことだ――が実存に不幸をもたらすならば、文字通りの逃避や逸脱は不可欠なのだ。なぜならその常道は、たとえ休めど定速で私たちを特定の方向性へと流していくからだ。自転をやめても公転の動きはやまない(のかは知らないで書いているが)惑星の動きと同じである。

「動く歩道」のうえで、前に突き進むことに没頭(これは「没」頭」とは区別されている)するならば、速度は言うまでもなく上昇する。誰かを追い越すこともできる。反対に、「動く歩道」に座り込むこともできる――それが休日であり、そのたびに時の流れの速さに悲嘆することになる――が、けっきょく移動しているのだから、時間は流れるし、流れた時間を充実とか消耗とかいう言葉で省みなければならなくなる。前に突き進むことにおいても、座りこむことにおいても没頭は不可能ではない。だが、ラディカルでもない。もっと徹底して、「没」頭に至る必要がある。

余談を言えば、老いと、時間の流れ、時間の実存感覚とを区別することが必要だ。老いは止められない。だが時間の実存感覚は、常道の流れに限っていえば、きっと止めることができる。ショッピングモールでもいいし、空港や駅でもいいし、本当にどこでもいいのだが、現実に物質的に存在する「動く歩道」にはかならず選択肢が用意されていることを思い出しておくべきだろう。「動く歩道」の隣にはかならず、「不動の道」もあるのであって、私たちは動く歩道に乗るか自分の歩みを進めるかを選ぶことができる。それらによって構成されている空間全体が「道」であって、その意味で真の解放はないし、いつも選ぶことができるわけではないが。

「没」頭していても、老いる。だが「没」頭とは振り返らないことであり、あるいは文字通り「何かに頭を没する(突っ込む)」ということであって、良く言えば自分自身を支えるポイントを「足/脚」ではなく「頭」に置き換えることにほかならない。足でもって地面に起立するのではなく、頭を壁にめり込ませることでもって自身を支える。足はもはや地面についていなくてもよい。「没」頭とは、頭を捨て去ることではなくて、頭以外を捨て去ることだと言っておいたほうが明確だ。

頭の固さが必要なのかもしれない。否、その内側にある脳は柔らかい方がきっといいのだろうが、その「うえ」にある表面は固ければ固いほどいいということだろう。硬いと書くべきか。

「没」頭の時間感覚は、老いのもとでは平等で(寿命という意味では限りなく不公平だが)、流れのもとでは遅れとして現象し、実存のもとでは豊かに加速をみる。対して、括弧の付かない没頭は、同じく老いのもとでは平等だが、流れのもとでは加速としてあらわれ、実存のもとではもう少し複雑な色彩で加速をみるのだろう。やりがい搾取、消費社会、労働、人生。

なお、流れのもとで現象する遅れの感覚は、「没」頭を脱したときにあらわれるはずだ。そもそも「没」している最中はそんなもの感じない。そして「遅れ」や「速度」というものはつねに相対的なものでしかありえない。時速200kmが速いか遅いかは何と比べるかによるし、あるいは自己評価で意味づけるものだから。

頭を壁や天井に打ちつけるという「没」頭の実践は、2つの意味で「境界的(=クリティカル)」なものだ。境界線はつねに複数のものの間に引かれるのであって、したがって境界線の向こう側には別の何かが存在する。境界線としての壁に頭をめり込ませることは、何らかの「別様」との出会いのチャンスをもたらす。反対に、しかし一般的に言って壁や天井は「硬い」から、頭突きによって頭のほうが割れ、致命傷(クリティカルヒット)を喰らうかもしれない。それは大変だ。

頭を「硬く」するためにはトレーニングが必要なのだ。あらゆる場所がその場所になりうるけれど、学びというのがきっとその本質的なものだと、やはり思う。武装せねばならない。


「長い一年だった」という僕の実直な感想は何に由来するのだろうか。それはもしかすると、「没」頭が今年はあまりできなかったからなのかもしれない。複数のことを同時に進めなければならないという状況が格段に増え、また個々の「没」頭の機会はより短いものになった気がする。そうであってもひとつひとつの「没」頭はやはり楽しかったから、逃避として不可欠だったとはいえる

今年は、博士論文を書いた(まだ手続き的には終わっていない)。そこに全てを「没」頭することができていたら、きっともっと良いものが出来ただろう。だが博士論文が「没」する対象だったのか、それともそこから逃避するべきものだったのかは、今となっては曖昧である。何が道で何が壁だったのか。「没」するべき壁だと思っていたものが実は道だったり、道だと思っていたものがいつのまにか壁になっていたりもするのだ。世は複雑である。


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