モアザンワーズ

モアザンワーズを観て

 Amazon Primeで公開されている『モアザンワーズ』を観た。はじめは暇つぶしにでもと何気なく見始めたものの、作品の持つ雰囲気に魅了され一気に視聴してしまった。本作品は、絵津鼓作『モアザンワーズ』幻冬舎コミックスを実写化した作品だ。若者たちの葛藤や曖昧さを描くこの作品は、特別映像で兼近さんが語っていたように「深く考えずに楽しんで」観ることが正解なのかもしれない。しかしながら、10話の映像を見て胸の中に残った―すがすがしい読了感でも何とも言えないもどかしさとも異なる―この曖昧さの正体をつかむために走り書きすることにした。

あらすじ


 作品の簡単なあらすじを紹介しよう。高校一年生の美枝子は学校で孤独だ。父親は若いころに家を去り、母親は仕事で夜遅くまで帰宅しない。彼氏との肉体関係を拒否したことで暴行を加えられた美枝子は彼氏の家から逃げ出すと、同級生の槙雄と出会う。友達も多く女子からの人気も高い槙雄はどこか達観している。二人は友達以上の、それでいて恋人ではないかけがいのない関係を築いていく。二人がバイト先に選んだ居酒屋で出会った永慈はゲイであるという。父親との記憶から男嫌いだった美枝子も、そんな永慈とは打ち解け、三人はつるむようになる。永慈は槙雄にひかれていき、二人は付き合うことになる。

 その後も特別な―同性同士で付き合う永慈と槙雄と二人を支える美枝子—関係を続ける三人だったが、永慈の父親は槙雄との関係に反対する。槙雄にだけ打ち明けたところによれば、アメリカにゲイアンチからリンチにされ左腕の機能不全に陥ったゲイの親友を持っており、彼と同じような目に永慈に合ってほしくないという。 

 数年後父親は再び三人と会い、今度は自分と同じように子育てをしてほしいという思いから槙雄と永慈の関係性に反対する。美枝子は自分が代理母となることで二人の、そして三人の関係性を続けることができると考え、葛藤しながらも子供を産むことを決意する。

 美容の専門学校の道に進む美枝子や父親の会社で働くことを決意した永慈をみて、自分には何もないと吐露する槙雄に美枝子は子供が槙雄の子どもだと―本当は永慈の子どもなのだが―伝える。しかし美枝子の体の状態からそれが嘘だと槙尾は見抜き、また妊娠している美枝子に献身する永慈の姿を見る。将来に向かう二人とそうでない自分との間の関係から、自分の存在を見失い、家を出てしまう。
 
 数年がたち、自暴自棄になりながら過ごす槙雄は小学校の同級生だった朝人と出会う。槙雄は朝人とともに食事をとるようになり、寂しさから肉体関係を持つようになる。美容師を目指す朝人は美枝子と同じ専門学校に通っていた。それをきっかけに槙雄は自分の過去を朝人に打ち明け、朝人は槙雄に二人と会ってけじめをつけるべきと諭す。葛藤ののち、槙雄は二人と再会し、三人は自分の気持ちを打ち明ける。槙雄は二人の夫婦としての関係を受け止めつつ、また二人の間の子どもとも会い物語は終了する。

「自分らしさ」と社会


 この物語のプロットを貫徹するのは無責任と責任、普通と非普通の対比である。学校になじめず恋愛や女性らしさと距離を置く美枝子は、永慈と槙雄との特別な関係を持つ。子どもを身ごもることは無責任と彼女の母親から批判を受ける。一方で彼女は成長の中で美容に関心を持つようになり、容姿も変化していく。また永慈との子どもを育てる母親となっていく。裕福な家庭の下に生まれた永慈は「やりたいこと」を見つけるために居酒屋でのアルバイトや染物屋での修業をする。ゲイバーに勇気を出して訪れるもその雰囲気になじめず去ってしまう。一方で結局は父親の会社に勤め、子どもが生まれた後は父親としての役割を果たしていく。

 美枝子と永慈には、無責任から責任、非普通から普通への変化が見て取れる。三人の関係維持のために子供を産むという行為はまさに「命をものとして」扱う行為であった。学校でなじめない美枝子、そしてゲイというマイノリティでありながら、ゲイのマジョリティ文化にはなじめない永慈は非普通の存在だ。一方で、彼らは年月を重ねるうちに、夫婦としての関係を築き、社会的にも安定した責任ある普通の地位につく。

 彼らはその意味で大人になったのかもしれない。しかしこの作品で描かれる大人は必ずしも「大人」ではない。永慈の父親は永慈と槙雄の関係に反対する理由を変更している。責任ある大人としてふるまいつつ、結局のところ子供の意思を尊重しているわけではなかった。美枝子の母親は毎日夜遅くに帰宅し、娘の入学式にも訪れない。娘に子供が生まれるとわかってからは美枝子に献身的な態度に代わっていく―あるいは美枝子が大人になったことで、母親を受け入れるようになったのかもしれない。

 話を戻すと、二人の在り方を変えた槙雄といえば普通から非普通への転換を遂げる。学校の人気者で飄々として物事を達観してとらえていた槙雄は二人との出会いを機に特別な関係の中に入る。二人との間にずれが生まれたのち家を去った槙雄は容姿も乱れ、自堕落な生活を送るようになる。「普通」だった彼も朝人との関係を持つようになる。二人と再会したのちも元の関係に戻るのではなく、(明確に描かれているわけではないが)永慈と美枝子とは一線を画すようになった。

 このような変化に見られる意味とは「自分らしく生きる」ことの意味だ。登場人物は自分のやりたいこと、アイデンティティをいびつな形ながら追求していこうとする一方で社会への順応を見せていく。自分らしさを追求するということは社会規範の中で行われる必要があるのだ。社会規範は以下のものに見て取れる。子どもが自分の思うままに生きてほしいと考える永慈の父親と父親の会社に勤めることになった永慈は家父長的価値観を体現する。美容に関心を持つようになり、子どもを産むということで自分の存在意義を発見した美枝子は生物学的女性らしさを体現する。永慈は槙雄との関係を望ましく思わない父親に対し、初めは自分らしく生きるために拒絶しようとするが、結局のところ父親の会社に入ることで家父長的権威を受容する。祖父との確執を抱える朝人もその存在を受け入れ年功秩序を受容する。また、自分らしく生きるために生まれる無責任は、社会にとって普通であることで打ち消される。永慈の父親が持つ、子の関係に対する理由の変更が持つ無責任は、普通の父親であるという権威によって打ち消される。また特別な関係から生まれた子どもという無責任さは、永慈と美枝子が普通の夫婦関係となること―槙雄の「三人でいたかった」という独白の後でも三人で暮らすことはない―で打ち消される。

 しかしながら、この作品の帰結するところを、結局は若者の未熟さと葛藤、社会規範の受容による克服に見出していいのだろうか。そもそもの無責任の出発点は、社会が男女の恋愛によって構築されていることではないだろうか。美枝子が男とではなく、人間としての槙雄と永慈との関係が特別であること、槙雄と永慈の間に公的な関係を設けることが今の社会においてできないこと、また仮にできるとしても社会としては非普通ではないことは社会の問題だ。確かに三人で暮らしていきたいという願いや関係の維持のために子供をつくるということは未熟でナイーブである。
 
 しかし、その前にある、誰かのことを好きになる、あるいは誰のことも好きにならないということは、各人の自由に委ねられるものであるはずだ。今日の資本主義社会において収入を得たり、一定の社会的につくことが普通であるのはその論理に整合的であろう。しかし、実存にかかわる部分である誰かを想う気持ちが普通の社会制度に組み込まれていることは、「自分らしく生きる」主体を普通の男女に限定している。社会がうまく機能するためには一定の社会規範とそれに準じた行動規範が求められる。しかしそれは非合理な社会規範を甘受するべき理由にはならない。槙雄は述べる。「別に普通やん。女も男も大差ないし。女でも嫌いな奴は嫌いやし。男でも好きな奴は好きなだけ。別に変わらんやろ、こういうのも。したい相手か、したくない相手か。それだけ。」

 槙雄との再会の後に永慈の頭に浮かんだ二人の思い出や、これから育っていく永慈と美枝子の子どものもつ重さは、子どもと家に帰る美枝子と別れ一人で去っていく槙雄の背中に―彼が朝人と幸せな関係を送るにしても―押し付けることはあまりに重すぎる。この作品を通じて考えるべきは、若者の初々しい群青ではなくなぜ特別な関係でならざる負えない社会なのかという点ではないだろうか。

 こう読み解くと、槙雄は作品のすべてを一貫して、性別にかかわらず「好きな人を好きになる」非普通のままでいたともいえる。そして社会規範に馴致しようと奔走する永慈と美枝子—二人はそうすることにより「幸福」を得たのかもしれないが―についていくことができなくなり、家を去ったのかもしれない。槙雄にとっての幸福は好きだから好きだった社会制度とは離れた三人の特別な関係性だったのだろう。

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