気づき

先日noteで
「だから、もう眠らせてほしい」
という本の存在を知り、題名に惹かれ購入し読んだ。

今日はその本を読んで気付いたことを書きたいと思う。

まずは自殺について。

最近自殺というワードを耳にする。
自殺と聞くと正直
・なぜ自殺してしまうのか?
・誰も止めることはできないのか?
・残された人の悲しみはどうなるのか?
と考えていた。

だけどこの本を読んで自分がどれだけ愚かな考えを持っていたのかを思い知った。

亡くなった方は簡単に自殺という手段を選んでるのではない。
悩みに悩み、最後に自殺という選択しか残っていなかったこと。
それなのに
なぜか残された側のことばかり考えてしまっている自分がいた。
何も相手のことを考えられてないことに気付かされた。

それは安楽死を希望する時も同じことが起きているようだ。

患者が
「耐え難い苦痛」
を負っている時に、医師は初めて鎮静の適応があると判断するらしい。
ならば耐え難い苦痛とは何か?
そもそも痛みは個人によって差があり、それを明確にすることは難しい。
ではどのように判断をするのか。

それは患者の病状について正確な判断が下せる医師
であると原則はなっている。

しかし安楽死を希望する患者さんがいても、
その家族が安楽死を望んでいない場合、医師は家族の意思を尊重することが多いようだ。
それは残される側のことを考えてのことらしい。
つまりは患者、家族、医療側のゴールが一致するのは非常に難しい。

そして今すぐにこの日本で安楽死を制度化することも難しい。
なぜなら
・医師一人一人の死生観の差
・残された側のケアが何も準備されていない

そしてなにより
安楽死という選択肢を最初から与えられることによって
簡単にそれを選ぶ人が増えてしまうのではないかと思う。

これは文化や教育の問題でもあり、簡単に変えることはできない。
だけどこれからの時代、必ず安楽死ということに向き合う時がくると思う。

決して今の日本の医師の判断が間違っていると思わない。
医師は可能な限り患者をより長く生かべきであるとして、わずかでも延命の可能性があるならそれを追求することを職業倫理として掲げる職種である。
だから自分も医者だったらそのような判断をすることになるだろう。
延命ではない選択をする勇気も自分にはないかもしれない。
だけど、一番苦しんでいるのは誰か。

それは患者である。

常に物事の本質が何かを冷静に考えられるようにしないといけない。
そして考えられるように教育から変えて行く必要があるのではないかと思う。

だらだら書いてしまったが、
つまり言いたいことは
これから多くの人がいろんな立場で物事を考え
寛容的な心を持たないといけない時代がくる。

現在snsでの誹謗中傷を見かけるが、
それは自分のものさしでしか測っていない。
否定から入るのではなく
受け入れることをして欲しい。

それは自分もこの本に出会うまでそうだった。
当たり前のことに気付けていない。

簡単に自分の意見を発信できる時代だからこそ
自分の中で考える時間がなく、発信されてしまっている。
今一度相手の考えを自分の中で一度咀嚼して、照らし合わせることが必要。

自分ももっと考えなければならない。

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