2月1日。毎年あれこれゆっくり考える日。
大した話ではなく、今の仕事を始めた日が数年前の今日だったというだけなのだけど、毎年、過去を振り返り今日からの自分を普段よりちょっぴり深く考えるタイミングになっている。

そんな中、ふと気づく。
これまでの人生で”声”が僕にとっては大事だった。
音楽が好きなので、ヴォーカルさんやコーラスさんの声がそのアーティストを好きになるかどうかの肝だった。
中学生の頃、夜更かししてテレビ放送が終わるまで見てた時に流れてきたスピッツ・草野マサムネさんの声は僕が音楽に心酔するきっかけを作ってくれた。その時のことは鮮明に覚えている。(ちなみに曲は「恋は夕暮れ」。多分、HTBの放送終了時の曲だった。)

それで、音楽だけじゃないかもしれないって気付いた。
これまでの人生、男女問わず、初対面で「この人の声、好きだな。」と感じた人との付き合いは長くなり、「この人の声、胡散臭いな。苦手だな。」と感じた人との付き合いは割と短期で終わったと感じている。

初対面の第一声。多分、挨拶か名前を名乗ってくれるか。その声をどう感じるか、案外僕にとっては大切な瞬間なのかもしれない。

苦手だと感じた声の人と無理やり仲良くしようとしたこともある。
でも、長く続かなかった。
傷付けられたり、騙されたり、時にお互いにマイナスしかない状態になったり…と、良い結末を迎えなかった気がしている。

気のせいかも知れないけれど、声ってのは僕にとってはとても大事な判断材料なんだと思う。

ただ、時に声が変わる人もいる。最初は胡散臭いと感じた人の声でも、ある時から全然違って聞こえる時もある。
僕の主観的な感じ方の問題だから、ものすごく自分勝手な判断材料だから、簡単に判断してはいけないということも分かっているつもり。

でも、僕にとってはきっと、その方の身なりやら顔やら諸々の目に見えるものよりも、声が重要なのだと思う。

直接「あなたの声が好き」「あなたの声が嫌い」なんてことは口が裂けても言うつもりはないが、声が好きな人と話している時、自分はなかなかいい笑顔をしていると思っている。
大好きなアーティストの唄を聴きながら飲むビールが最高に旨いのと同じ感じ。

僕は昔から他人に恵まれると思って生きてきた。
本当に何にもできないポンコツなのに、どうにか生きてこれたのは他人様のおかげが大きい。
そして、僕を生かしてくれた人の多くは、僕の好きな声の持ち主だった気がする。
(苦手な声の人も、結局は反面教師的に僕を助けてくれていたと考えれば、全員がやはり僕を救ってくれているとも言えると思う。)

これからも僕は声を判断基準にしていくかもしれない。
でも、あくまで判断基準の一つであることを忘れてはいけないな、という自戒の意味も込めて、ここに書いてみた。

今年は、定期的にnoteを書いてみようと思う。いや、書けるときに。
書けるかな、どうかな…。

この読みにくい文章をここまで読んでくださった方がいるのなら、ありがとうございます。

おわり