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"らしさ" が怖い私は欲張りなのかもしれない

「あなたらしい弾き方だね」
「あなたらしい服装だね」
「あなたらしくないセンスだね」

生きていると、〜らしい とかいう言葉をよく耳にし、私も言われることがある。

ましてや音楽を専門に勉強していると、"らしさ" は重要視され、私も "私らしい音楽" にするために日々練習をしている。先生曰く、"私の、私にしか出来ない、私らしい音楽" でないものは、ただのコピペとされるらしい。深い。深すぎる。


しかし、この "〜らしさ" という言葉が私はとても怖く感じる。
そもそも、"〜らしさ" ってなに?


例えば、私は何も考えずに選んだ服を着て行った時、友人に「今日は〇〇ちゃんらしくない服装だね!」と言われたとする。
この時友人には、友人の中で、友人の思い描く "私" がいるということになる。
私自身もこれは普段と違う服装だから今日は新鮮だな!とか思っている時は一致するから良いのだけれど、何も考えずに選んだ服について〇〇ちゃんらしい、〇〇ちゃんらしくないという判断をされるのは少し怖い。
一体、友人の中でどういう私が私らしいとされているのだろう?友人は、私の何を思って "私らしい" としているのか?

この時私は、どんな服を着ていても私は私なのになぁとか思ったりしている。(めんどくさい人すぎる…


このように、おそらく私は他人にイメージを勝手に固定されたり、自分で自分のイメージを固定したりするのが苦手なんだけど、それは、意図せずそのイメージに反した時、自分にも他人にも凄く悪いことをしたような気がするからだ。
だから 「え〜意外!」と言われることもゾッとするし、何をしても私は私なのになぁとか思う。
上手く表せないけれど、イメージをもたれると人はそのイメージ内でしか捉えられてない気がするのだ。他人の中の私と、私の中の私が結構ズレていたとしても、他人にとっては、他人の中での私が "私" になってしまうのだ。
また、私の中だけであっても自分のイメージを持ってしまったら、そこから越えられない気がして、若しくはそのイメージから全てを考えて行動してしまう気がして、とても勿体無いことだと思ってしまう。


そんなこと言っても、私自身も他人のイメージを意図せず勝手に固定してしまうこともある。
例えばインスタのアイコンひとつ見ただけで、その人とあまり親しくなくても、大体どういう人かが分かる。分かってしまう。イメージが出来てしまう。
自分軸がしっかりあり、自分に自信がある人はこれでいいのだろう。むしろイメージを認識し、定着された方が生きやすいのだろう。

それに比べて私はまだ自分を探っている状態で、自分の美学や軸などを持てていない。だからその状態で勝手にイメージを持たれ、固定されたり、自分で自分のイメージを決めつけてしまったりすると結構生きにくく感じてしまうのだ。
だから私は今のところインスタのアイコンもLINEのアイコンも何も設定していない。というか、他人や自分にイメージを固定されることが怖くて設定出来ていない。という書き方の方が正しいのかもしれない。
(Xだけは可愛い女の子をアイコンにしてしまっているのだが…)
まぁそんなことはどうでもいい。


とにかく私は、どんな私でも私として違和感なく見てほしいし、どんな私であっても自分の中で違和感なく私だと認識したい。そのためにイメージを固定されたくない。他人と自分の中での "私" の範囲を広げておきたい。そして可能なら、他人の中での私の認識と、自分の中での私の認識はなるべく近いものにしておきたいと思う。"謎な人" と思われるなら、それはそれでいい。

でもこの考えって、もしかしたら凄く欲張りな考えだったりするのかな?
と最近思うようになった。

イメージを固定されていないから、どんな自分になったって怖くないし、どんな自分の探り方をしても怖くない。
これって結局私は、自分を探すためには仕方ないことだと思っていたけれど、自分の思考範囲や行動範囲を楽に広げていたいという、わがままな 欲 だったりするのかな?とか…

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