自分の経験を一般化する人が増えた?

自分の経験を一般化する人がとても多い。以前から気になっていました。しかし最近、そういう人が増えたような気がします。弊害も強く感じるようになりました。

自分の経験を一般化する人は、ごく少ない事例から全体を結論付けます。だからそれは参考意見であって、そんなこともある程度にしかなりません。受け側も決して一般化して理解してはいけないはず。

今回は、統計の考え方を少し交えて何処に問題があるのかを考えてみようと思います。


以前から気になっていたことの例:
私が楽しかった。こんな楽しいことなんだからみんなに勧めたい。
私はこれで成功した。みんなもやれば成功する。

これらの例は、そう思うならそうすればいいさ、程度で終わる話でした。


しかし最近の問題はこんな感じ。
・新型コロナ騒ぐけど感染者なんか近くにいない、怖がりすぎ(2020年)
・ワクチン打っても、自分もまわりもみんな元気だよ
・オミクロンで重症化した人を診ていない、軽症だから治療不要だ(医師)

これらの主張は、自分とそのまわりや、体験がすべてだという思い込み(または深刻さを否定しようとする作為)が背景にあると思います。そして実際に、この情報を真に受けた一部の人への思い込みを誘発してしまっているように感じています。

これには、心理学からの名前が付くと思います。その1つが正常性バイアス。信念バイアスが絡んでいるかも知れません。


論理的にこの3つの例の主張は何かを考えてみましょう。言っているのは、「周りで起きたという情報を自分は把握していない」です。把握できていないだけで、実際には起きている可能性は否定できません。そもそも起きたこと全てが情報として伝わる訳ではありません。
例えばワクチン後遺症が出た人が、ワクチンを信じ切っていて、後遺症など気のせいだという人に対して、辛い後遺症のことを積極的に話すでしょうか。コロナは風邪だと主張する医師の所に後遺症を診て欲しいと誰が行くでしょうか。後遺症があまり認知されていない、どちらかと言うと否定されている今の日本の社会で声を上げるのはとても大変なはず。耳に入ってこないのは、ある意味当然なのかも知れません。
(だから平畑先生のような所に後遺症の人が集まる)


続いて統計として考えてみましょう。例えば「ワクチンを打った人は皆元気」を例にします。「日本でワクチンを打った人」の一部の人を選び、元気かどうかを調査した、と考えましょう。選ばれた一部の人たちの中に元気でない人はいなかった、という主張になりますね。

しかし問題は、「選ばれた人」は元気な人の中から選ばれている可能性です。上に書いた通り、後遺症が出た人の情報は耳に入ってこないなら、こうなります。つまり調査としては逆転していますね。

これは統計では偏りがあるデータだと解釈されます。

統計が意味を持つのは、偏りがないデータがある時です。だから統計のためにデータを集める時は、どのように偏りがないデータを集めるかがとても重要です。誰が見ても偏りがない、と認めてもらうにはどのようにデータを集めれば良いのか。原理(理想)としての答えはランダム化です。そして基本的には前向きの評価(例えば以前の記事参照)が必要です。しかし実際には簡単ではありません。今回の3つの例は誰もが何か変だと感じるでしょう。しかしもう少し巧妙なものもあります。例えばファイザーの治験の信頼性が議論されていますね。


統計はデータがあってこそ。しかしデータには注意が必要。