「批判的であること」こそが科学と社会の発展をうながす

物事を批判的に捉えていると、「批判ばかりして!」と言う人がいます。しかし物事を批判的に捉えることがなければ、科学も社会も発展しなかったのではないでしょうか。

・科学はあらゆる批判に耐え続けて残ったもの
・事実は事実と認め、批判を受け止め、模索することが社会の発展に不可欠

データや情報を読み解く時、批判的に捉えることがとても重要です。勿論、批判のための批判や、捻じ曲げた主張など、害悪になるものもあります。だから生理的に「批判」は良くないと感じる人もいるのですね。

今回は、科学は批判に耐えて来た、ということを少し考えてみたいと思います。

科学はあらゆる批判に耐え続けて残ったもの

この事実に疑問を持つ人は少ないと思います。特に宗教的な考えと相反する結果が世の中に突き付けられた時の反応と、その後を見れば明らかでしょう。代表的なものは、天動説と進化論ですね。例えば天動説。天動説を使っても、計測技術が未発展な時代にはそれなりに天体の動きを説明できていたが、星の位置と時間が正確に計測できるようになると説明ができなくなってきた。つまり批判に耐えられなくなった訳です。

完全否定された天動説とは違い、ニュートン力学は条件を限定すればすべて成り立つので、そういう意味で批判には耐えて来たと言えるでしょう。

進化論は、今も一部の人々からは批判が続いているようです。この事実は、主義・信条が、場合によっては科学の認知へも影響を与える場合があることを教えてくれます。

少し視点を変えると、科学は今はわからないことを「仮説」とし、実験や観測によって検証して来ました。検証に耐えたものだけが残り、新たな知見となった訳です。

つまり長い歴史の中で、科学は批判によって検証され、時に間違いを認めながら、本質に近づいてきたと言っても良いのかも知れません。


事実は事実と認め、批判を受け止め、模索することが社会の発展に不可欠

ところが科学を離れると、物事が複雑であることもあって、中々まっとうな批判でも受け付けない場合があるようです。例えば人間は、自分が信じていたことが覆されることに苦痛を感じる場合があります。何かのきっかけで気づく場合はまだしも、批判され、論破された状況ではやはり納得できないと思うことも多いのではないでしょうか。それはつまり、自分のそれまでの行動すべてを否定することになる場合もあるからなのだと思います。

私がこれまで見て来て驚いた例を1つ。慰安婦問題が取り上げられ、過去の日本が批判されると、そのまま自分が攻撃されているように感じていた、という人がいました。そこまで自分と過去の日本まで一体化して考えてしまったら・・ 当然、将来の行動も過去に引きずられてしまうでしょう。

いずれにしても、事実ならばそれを事実として認める。まだわからないことならわからないと解釈を保留する。間違いならばなぜ間違っていたのかを考える。それを咀嚼した後、将来のことを考える。こうありたいですね。


そのための基本が、「批判的」な目を持つこと、批判は攻撃ではなく考えを深めることだと理解することだと思います。