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沖縄の短歌一首評④田島涼子

残骸となりたる壷のかけらさえ水を溜めいて花を咲かしむ
      『雨の匂い』 田島涼子歌集《短歌新聞社》平成15年3月刊行

田島涼子は沖縄県宮古島市平良出身の歌人です。『雨の匂い』は第一歌集となります。

反戦の人の輪に添うぼたんづる篠突く雨に執にからまり
一言を受けとめかねて秋雨に濡れゆく芙蓉の花を見ており

歌集中の短歌は平易で清澄な印象を与えます。
巻末の小山とき子氏の「跋」によれば、総歌数507首の内、草木167首、旅139首、肉親縁者58首、職場38首、などで、沖縄の現状や作者の日々の心情を草木に託して歌う短歌が中心となっています。

 掲出歌の構成はシンプルで、歌意の伝わりやすい歌かと思いますが、読む人によって思い描く印象はそれぞれ異なるように思われます。

上句初句の「残骸」という荒涼としたイメージが「壷」へと掛かるとき、容れものとしての壷はある人には人間そのものを、あるいは生きる場所や大きくは地球などをもイメージさせるかもしれません。壷の残骸のかけらは、過去と現在の戦争に惑う人々の状況や、あるいは病や人間の心の挫折、苦難を思う方もいるかもしれません。
その印象の多様化は、にんげんと世界がいかに壊れやすいものか、ということを気づかせてくれるように思います。

作者は「あとがき」において掲出歌について述べた後に宮古島人の持つ「アララガマ魂」について述べています。

アララガマ魂とはこのくらい負けてたまるか、何くそと歯をくいしばって頑張ることをいいます。

「あとがき」より

下句における<かけら>に溜る水はあるいは「アララガマ魂」と言えるのかもしれません。

<花>は一読して「パンドラの箱」の希望を思わせますが、わたしは<花=再生>と捉えたいと思います。
希望はあくまで希望として箱の中にとどまりますが、<花=再生>と考えたとき、どのような状況においても<私自身>へと回帰する意思としてあらわれるように思われます。
歌集全体を包む、水彩画のような淡い明るさは<花=再生>への願いのように感じます。

宮古島はまた、ロシア人の東洋言語学者ニコライ・ネフスキーの著作『月と不死』にみられるような、若水と再生の神話をもつ島でもあります。


拙首3首  花木の短歌
酩酊の姿態を柳に絡ませて腐臭で生きる花だってある
明るさを縦にすべらせ捕食する|《食虫植物》ネペンテスの公園に行く
丈高しカンナの花は猛々し太初太虚の駝鳥の眼をもつ


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