ウエダツバサ

絵を描いています。 https://uedatsubasa.com/

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マガジン

  • 2022年の作品

    2022年に公開したイラストをまとめています。

最近の記事

夜想

身に降りかかる出来事の多く、その解釈は自分次第らしい。幸とか不幸とか、偶然とか必然とか。傍から見れば不運に思えることも、当人が良しとするなら幸運。逆もまた然り。何だっていいなら極力明るい表現を使いたいのが人情だけれど、そんな簡単に割り切れないのもまた人情だなと思う。幸せはまるで不幸の前触れみたいでしばしば恐ろしくなる。禍福は糾える縄の如し。人間の脳ってどうしてこう余計なことを考えるように出来ているのだろうか。生きるって面倒くさいな。

    • 夏を待つ

      社交性の燃費が著しく悪いので、基本的に一人でいる時間が好きだったが、最近は周囲に寄りかかりながら生活中。 精神状態が大変良くない時期を経験してからというもの、強がるほど脆くなることに気が付いたので、頼れる時は頼る、抜ける力は抜く、を心掛けている。まだまだ全然出来ていないのだけれど。もっと人に頼ることが上手になりたいもんですね。 今回はあまり普段使わない色で夏っぽい絵に。夏が待ち遠しい。夏は嫌な思い出が少ない季節なので好き。毎年無性に花火だけはしておきたくなる。描いといてあ

      • 温もり

        バタバタと数ヶ月が過ぎた。その間に散らかった生活を少しずつ整理する。ただただ情動に任せていたい気分も長くは続かず、脳みそは早々に理論的な思考に占拠された。感情の表出が下手なのはいつまでも課題だ。 変わらなくていい部分はすぐに崩れていく癖に、変わっていきたい部分は居座り続けている。生活に関する諸々、こんなにも面倒だったかしらと辟易。居ても立ってもいられてしまう。心持ちがどうあろうが日々は続いてしまうので、どうにか折り合いをつけて前に進みたい所存。 自分にとって大事なことほど、

        • 非常口

          心模様に雨が降る。雨が降っている間は傘を差さないといけないから、片手がふさがる。だから晴れている日の半分の力でしか動けない。水溜まりを踏まないように地面に注意を払う必要性も考慮すれば、半分以下の力かもしれない。どこかで雨宿りできるほどの余裕もなくて、目の前の出来事をこなすこともままならない。 少しでも自分の機嫌を取れればと、砂金を探すように日常の取るに足らない「良いこと」を拾い集めてみる。だけど、わざわざ集めたそれらも至極くだらないものに見える上、良い気分になろうとしている

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        • 2022年の作品
          12本

        記事

          言えない

          他人の優しさは「何を言うか」によって語られがちだが、「何を言わないか」もまた同じくらい表裏一体で重要な役割を果たしているように思う。 ただ、「言ってくれる」優しさは気が付きやすいけれど、「言わないでいてくれる」優しさは直接なにか言葉を受け取った訳では無いから気が付くまでに時間がかかる。これまでの関係性を顧みた時に「ああそう言えばこの人はこんな時にこういうことを絶対に言わないな」となって初めてその心地良さの原因に気が付く。受け手の意識が向いていなかっただけで、確かにそこに

          湯に溶かす

          湯船に浸かるとか、散歩に出るだとか、そういった日常の小さな行動が精神の安定を支えてくれている。これらの作用はとても有難いが、一方で己の身体を滑稽にも感じる。 あんなにも頭を占めていた悩みが、ちょっとした心拍や体温の変化で軽減される様は、機械的な程に単純であるから。身体の機構があまりに高性能な為に一見すると単純に見える、という可能性もあるか。まぁどちらにしろ感謝しないと。 日々の煩悶や憂慮の何割かは湯に溶け、あるいは風に飛ばされ、抜けた穴には根拠の無いやる気が流れ込む。こ

          世界観

          完璧主義的な思考に頭を支配されてカレンダーにバツ印が連なるのはもううんざりなので、何とか意識を塗り替えたいお年頃。「完璧」でなくてもいい、「最善」であればいいと自分に言い聞かせる。最善主義。そもそも何かを完璧に出来たことなんてないのに完璧主義に陥るなんて、実に阿呆らしい。 そうは言っても、「最善」はあくまで「最も良いと信じて執る行動」に過ぎない。その当時は最善であると信じていた行動が、改めて振り返ると醜く見えてしまうことだってある。「今の自分であれば、当時もっと上手く出

          悪夢

          大人/子供の境目を考える時、「大人になった」よりも「子供ではなくなった」の方がしっくりくる。どちらも同じ意味であるはずなのに。何かを得ることで大人になるというよりも、何かを失うことで大人になる感覚。⁡ ⁡ 法律その他で一律に定められた「大人(成人)」は、大抵何かの権利を得たりそれに伴う責任を課せられたり、「追加要素」で定義されている面が大きい気がする。 一方で、個々人の精神の成熟具合を指す場合の「大人」は、むしろ何かを失うことが大きな要素になっているような気がする。純粋さ

          潮騒

          意味があることに囲まれると、意味ばかり求めてしまう。とは言え、生活は普遍的な意味だけを追っていれば良い様な単純な代物ではないように思える。 人にはそれぞれ「意味があること」と「意味がないこと」の他にも「意味があるとしておいた方がいいこと」があるのだな。きっと。そんな曖昧な辻褄合わせに頼らないと、何もかもが立ち行かないから。

          境界

          あらゆる移ろいに気圧される感覚が薄らと続いている。何かに取り残されたような気持ちと、でもそれで良いのだと思う気持ちが並走。焦燥と諦念のマリアージュ。 暗転も受け入れた上で更新ボタンを連打する日々は、手にすることよりも取りこぼすことの方が多い。井伏鱒二氏の「勧酒」訳文から“「サヨナラ」ダケガ人生ダ”の一文を反芻している最近。

          片隅

          分からなかったことの方が、理解しようと何度も考えを巡らせる分だけよく覚えていることがある。 もはや答え合わせのしようがない場合でも、不明瞭な思い出たちは形を変えながら思考の片隅に存在し続ける。 あの時のボールは、ゴールに入ったのか入らなかったのか、どうしたって答えが出る訳では無いのだけれど、曖昧なままで頭は思索を始めてしまう。 そんな曖昧さの中に漂う記憶を焙煎して、作品を作る。俯瞰的に見れば、不要なもので不要なものを作っているかのよう。でもだからこそ、自分だけのもの

          生活

          手にできたものだけじゃなく、手を伸ばさなかったものや手放してきたもの、手が届かなかったものも、同じ位自分を構成してくれているな。ありがたくて憎たらしい。