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耐えて"しまえる"ことによる弊害

直近は自身の力不足と、それだけでは説明しきれないクライアントによる大量の要求によって
これまで以上に「耐える」という時間が多くなりました。
今回は耐えることを強いられる状況が特に顕著だった直近約1ヵ月間を過ごしてみて
感じたことについて一つ取り上げたいと思います。

これは個人的な話ですが、僕は耐えることが得意だと自負しています。
ただ、今回は一線を越えてみて、耐えて"しまえる"ことによる弊害を人生で初めて感じました。
これまで、無視意識的に「耐える=良いこと、評価されること」といったものが脳内に刷り込まれていたので
今回感じたことは自分にとってインパクトが大きく、今後の生き方に影響を及ぼしそうとさえ感じています。

僕はこれまでの経験から、耐えることに慣れてしまっています。もはや当たり前のことという感覚でさえあります。
ただ、ユニークでもある自分の中のその基準が、現状打破への動機になりうる可能性を少なからず邪魔していると直近感じています。
日々尽きることなく生じる問題に対して、耐えることによる解決手段を真っ先に選択し、ある種楽をしているのではないかといった自問です。

これには、「思考時間の圧倒的少なさ」と「これまで生きてきた環境」によるものが原因にあると考えました。
まず思考時間についてですが、これは未来視点における思考に限った話です。
今に目を向けると、そもそもその思考時間さえもったいないと感じてしまい、結局、作業(=耐える)という選択を優先してしまいます。
ここ最近の自分は、今にしか目が向いていないため、思考時間を確保することへの優先度を落として、作業時間を優先してしまっているのです。
ただ、それでも思考時間を捻出する必要がある理由は、未来を明るくすることへのインパクトが大きいからです。
タスクがひっ迫している状況下でも30分思考時間を確保する、ということが2週間後の自分を変えることになると信じています。
耐えるという行動の選択で楽をせず、現状を変えるために未来の状態を本気で考える時間を最優先で捻出していく必要が今の自分にはあります。

また、これまで生きてきた環境については、チームスポーツという経験が自身の思考や行動に多大な影響を与えていると思っています。
学生までの自分はこれまで、理不尽がなぜ起こるのかではなく、理不尽をどう乗り越えるのかにフォーカスする癖がついており、
根本課題に目を向けづらい凝り固まった思考になっていると気づきました。まさに今、そもそもの前提を疑うことであったり、
根本課題の発掘といった自身のウィークポイントに対して周囲の皆さんにボコボコに鍛えていただいてます。

そもそも今回、このようなことを考えるようになったのは、1年目に読んだある一冊の本を読み返したのがきっかけでした。一部、文章を抜粋させていただきますが、まさにその通りだと共感しました。

ビジネスと比較して、特にスポーツは、立ち現れてくる出来事の解像度が極めて高いと感じます。(中略)僕たちがおそらく体験しているであろうことは、特に集団で何かを成そうとした時に生じる諸問題に対する「避けられなさ」、(中略)自分や誰かが失敗をしたという圧倒的な現実を前にして、理想の状態とはほど遠い感情に支配される。こんなに汚い感情が、どうして自分の中にあるんだろうかと嫌悪し、嘔吐しそうになるのを何とか堪えながら、次の瞬間にはまた誰かと共にプレーしなければならない、そんな体験です。

要は、サッカーにおける問題はビジネスと比較して、勝敗がハッキリしていたり、誰の失敗かが明確に事実として残ります。
そのたびに自責と他責の感情が交錯し、メンタルだけでなく同時並行で肉体的にも苦しい、痛い状況で90分間戦うわけです。それも協同して。
そんな状況においても仲間と共に僕らは明確な価値を信じて戦ったという経験があります。過去の話ばかりするのはあまり好ましくありませんが、
このような避けられない現実に対して、嫌でも向き合ってきたサッカーという経験が今の自分の多くを形作っていることから目を背けてはいけないと感じています。

長々と綴りましたが、直近感じていることをまとめると以下です。
耐えることは重要なスキル。だが、耐え続けることは本質的ではないと感じました。
集団競技の精神がこびりついて剥がれないそんな自分でも今の厳しい状況を打破するため必要なことは、
耐えてしまえる問題に対して、耐えるのことを止める決断をするタイミングの見極めが重要だと考えています。
なので、耐えずして勝つという方法を探しに行く勇気をまずは持つことから始めたいと思います。
あとは圧倒的行動量と想いの強さで何とでもできると思うので、引き続き楽をせず邁進していきたいと思います。

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