『松前藩正議士文書』の信憑性について~『文書』中箱館戦争緒戦に関する記述からの考察っぽいもの~

松前藩正議士文書』という古文書がある。

幕末のどん詰まり、元号が明治に変わる目前の慶応4(1868)年8月、松前藩において下国東七郎らを首魁とした不平藩士らによるクーデターが勃発。それまで藩政を掌握していた松前勘解由ら旧臣らが粛清され、体制が一変する。このクーデターの原動力となったのが『正議隊』である。

『松前藩正議士文書』は、この『正議隊』が慶応3年3月に結成の血盟をして以降、正議隊同士によって交わされた往復文書が一綴りになっていたものを美術蒐集家の木村定三(1913-2003)が発見し、乾坤2帖に改装したもので、現在原本が函館市中央図書館に所蔵されているほか、翻刻が『江差町史』第三巻(資料三)に所収されている(来歴は同翻刻による)。

自分がこの『松前藩正議士文書』を初めて参照したのは、現在研究を進めている国指定史跡・松前藩戸切地陣屋跡の来歴について史料の捜索を行っていた時だった。『~文書』の往復書簡の中には、箱館戦争緒戦における戸切地陣屋守備隊の動向および大野(現・北斗市)における旧幕府軍と新政府軍の激突─今日『意冨比神社の戦い』と呼ばれることの多い戦い─についても記載があり、また新たな記録を見つけられたかとワクワクしながら読み込んでみた、のだが。

…内容が、おかしい。根本的な部分での誤りがあるのだ。

その後、A町での講演の依頼の下準備として、旧幕府軍の鷲ノ木到達より峠下での新政府軍夜襲に端を発する所謂「箱館戦争」の勃発、さらには大野での『意冨比神社の戦い』に至るまでの経緯を旧幕府軍側・新政府軍側双方の当時史料の比較精査によりまとめる機会があり、箱館戦争緒戦の動向についてある程度つかむことができた(この内容についてもいずれ書きたいと思う)のだが、『正議士文書』の内容は(先に上げた根本的な部分での誤りに目を瞑ったとしても)そうした他資料から読み取れる情報と全く異なるのである。

では、その「おかしな点」について、順を追って説明していこうかと思う。

まず『正議士文書』中にある、箱館戦争勃発のきっかけとなった明治元年10月22日の夜襲に係ると想定される部分を見てみよう。

一、当廿二日夜九ツ時頃、藤山村江陣立ニ相成、暫ク戦ヒ候得共、諸家様御申言之上、翌廿三日昼過ニ引上相成候由

この内容には、以下のような疑義がある。

・とりあえずこの日の夜襲は藤山村『から』峠下村『へ』攻め込んでいるので「藤山村『江』陣立」という記述からしておかしい

・この夜襲に参加したのは箱館府兵・弘前藩・松前藩であるが、それぞれの当時資料中の戦闘時間の記録を見ると「2時間半ほど砲戦した後に暁七ツ半(朝5時)頃撤退」(『太政官日誌箱館府兵日報』)「夜半に出兵し八ツ半(朝3時)頃撤退」(『津軽承昭家記』)「丑の上牌(午前1時40分)に攻撃開始、寅の中牌(午前4時20分)に撤退」(『松前藩戦争御届書』)とあり、多少のブレはあれ10月23日午前2時ごろから未明のうちに戦闘が終了している。にもかかわらず、『正議士文書』では夜九ツ(午前0時)から昼過ぎまで戦闘が継続したことになっている。

…この時点で「あれれー?おかしいなー?」と心の中の江戸川コナンが声を上げるのであるが、疑義はこれだけではないのである。再び『正議士文書』から、今度は10月24日早朝に勃発した大野村付近での戦いについての記述。

一.同廿四日朝六ツ半過、出張之御人数、御内ハ舛田作郎殿始鎗劔隊、幷津軽様とも大野村江出陣、既ニ及戦争候内、昼四ツ頃とも候か、諸家様御当家とも御人数一同大敗ニ相成、不残散乱いたし候由ニ御座候

では、また一つ一つツッこんでいこうと思う。

「二十四日朝六ツ半過(午前7時過)」に大野へ出陣、戦闘中の所に参戦したとの記述であるが、当時資料を精査すると、まずこの戦いにおいて鎗剣隊を含む松前藩部隊は前日の23日夕刻までに大野村に着陣している(『松前藩戦争御届書』『阿部正桓家記』『箱館日誌』)。

 その後、福山藩・大野藩と軍議を行い24日午前2時の夜襲の方針を決定するも日付が変わった辺りから村内に流れた噂に動揺しまくった後、夜襲を怖れ後方の千代田村まで三藩仲良く後退し、午前4時頃に再び大野村に戻っている(『箱館日誌』)。

 さらに午前6時にようやく大野口総督・岡田伊右衛門が大野村に到着(『阿部正桓家記』)。3藩を交え再び侵攻方針についての軍議を始めた(『阿部正桓家記』『箱館日誌』)ところに新政府軍襲撃の知らせが入り、午前7時ごろに大野村・市渡村境界で戦闘が開始されるのである(『南柯紀行』『蝦夷之夢』『北洲新話』『阿部正桓家記』『土井利恒家記』『箱館日誌』『松前藩戦争御届書』)。松前藩の記録にも途中増援の記録などはない。つまりは、前日の夕刻から松前藩部隊はずっと大野に滞陣し続けていたわけで、「24日午前7時に出陣」という事態はあり得ないのである。

・『正議士文書』で松前藩と共に出陣したとされている弘前藩部隊であるが、24日未明に滞陣していたクネベツから大野村へ途中まで一度兵を動かすものの、箱館府軍監・手塚修平より「今の状態では大野村での防戦は覚束ない状態である(おそらくは千代田村への一時撤退などの混乱ぶりが原因と思われる)」との情報を受け、そのままきびすを返し再びクネベツまで兵を戻しており(『津軽承昭家記』)、大野村での戦いには参陣自体していない。

・『正議士文書』では戦闘が「昼四ツ(朝10時)頃」まで続いた、との記述があるが、当時資料では「一時余の戦いにて、許多の武器弾薬を残し、悉く千代田の方に引揚げたり」(『南柯紀行』)「半時余り奮戦之所、敵兵我三面ニ迫リ、頻ニ攻撃、官兵頗苦戦、漸々退軍」(『土井利恒家記』)とあり、また『津軽承昭家記』にもクネベツに滞陣していた津軽藩の元に各藩が引き上げてきたのが「朝五時過(午前8時ごろ)」とあることから、この大野村での戦闘は午前7時頃に開戦し1時間あまり、午前8時過ぎには新政府軍の大敗で決着しており、一致しない。

…かくのごとく、このわずかな部分ではあるが、『正議士文書』は当時資料から伺える「史実」と内容がことごとく整合性をもたないのである。

さらに、上述の内容が記載された『正議士文書』中の書簡には、決定的な誤謬が存在するのである。冒頭に上げた「根本的な部分での誤り」である。それは何か。

…ここまで引用してきた『正議士文書』中の記述において、共通して欠落しているものがある。それは、各事績の発生した日付のである。当時資料との比較を行う上で、実はここまではそれをあえて無視して、史実におけるそれらの発生月─つまりは旧暦明治元年10月のことであるという前提で話を進めてきた。それでもここまでの内容の不整合が発生する訳である、が。

この書簡の最後に記されている文言は、以下の通りである。

「…追々暑気ニも可相成候間…恐々謹言  初夏九日 安田拙三」

ちなみに大野口の戦い発生当時の季節は、繰り返しになるが旧暦10月下旬新暦で言うと12月初旬である。この戦いに参戦した大鳥圭介は、当日の気候を以下のように表現している。

「…北風強く雪降り、道路は石の如くに凍て鏡に似たり、寒気最烈しく予鳶合羽を着せしが、昨日雨に遇いしにより袂も裾も皆凍りて薄板に等しく、之を畳めば折るるばかりなり…」(『南柯紀行』)

…これがまだ、『正議士文書』が単発の書簡集の体裁であれば、日付間違いやまあうっかりして(旧)10月の話を(旧)6月の手紙で今更知らせたとかの言い訳もきくかとも思うのだが、下手に連続書簡の形を取っており、内容的にもしっかり繋がってしまっているためそれもできない。なお前後の書簡の日付はそれぞれ旧暦五月三日旧暦七月十七日である。アカン方向で辻褄があってしまっており、このおかげで『正議士文書』全体が一気に胡散臭さを増してしまっているのである。

以上のことから、自分は『正議士文書』は九分九厘偽書であると踏んでいる。他の史書で一切出てこない割に書簡往復メンバーのど真ん中にいる人物なんかも登場しており、多分にメアリー・スー(マーティ・スー)臭さを醸し出している。

実は『正議士文書』だけではなく、明治以降に著作された「正議隊系」藩史にはこういった傾向が極めて強い。特に大正~昭和期は、正議隊を直接知らない人物による粉飾・誇張がふんだんに盛り込まれた史料とは到底呼べない資料が多く存在し、また(まさか「史家」がそんなものを遺すまいという性善説的視座に基づき)それらに依拠し(てしまっ)た論説なども今日少なくない。注意が必要である(そのあたりはまた別の機会にお話ししたく)。

…最近この『正議士文書』を基礎資料とした御本が出版されたと聞き及んでおり、正直「それ、本当に大丈夫ですか?」と心配している。歴史研究における資料批判って、初歩の初歩だけど本当に大事ですよね、といったところで本文はおしまい。長文駄文失礼しました。どっとはらい。



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