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「忘れたこと」と「書けなかったこと」

トップの写真は、10年前の2007年9月、僕がミクシィ日記にアップしたものを持ってきました。
どこで撮ったものか、ぜんぜん覚えていません。

ふつうに暮らしていれば、当然いろんなことを忘れていくもので、でもかつて僕はそれをとても恐れていたように思います。
日々のできごとや、なにを感じたのか、自分がなにをしたくて、なにを成そうとしているのか。なにを考えたのか。

そんなひとつひとつを失っていくのがいやで、だからミクシィ日記で、アホみたいに毎日毎日、誰の得にもならん駄文を書き連ねていたんだと思うんです。
(ただ単純に悦に入っていた、というのもあります。)

それがいまは、ツイッターやフェイスブックがあることで、なんとなく小出しにツイートすることで満足して、アウトプットした気になっています。
単純に、目の前の仕事をこなすのに必死で、いちいち書き留める余裕なんてない、ということかもしれません。

なによりたぶん、忘れることに無頓着になったし、忘れることに慣れたんだと思います。


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「書けたものより、書けなかったもののほうが多い」
「撮れたものより、撮れなかったものほうが多い」
「その中にこそ、本当に大切なものがある」

うろ覚えなんですが、こんなような一節をツイッターで見ました。
書籍かなにかからの引用だったのかな。
すごく胸を打たれたんだけど、RTもふぁぼもしなかったようで、振り返っても見つかりません。

最近は、仕事をはじめてからの10年での「忘れてしまったこと」について、よく考えます。
それから、僕のなかにある「書けなかったもの」のこと。


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先日、松木さんという知り合いのカメラマンの個展に行きました。
彼は僕と同世代で、10年くらい前に恐らく僕と同じような初期衝動というか、表現欲求というか、抑えきれない欲望みたいなものが湧いたんだな、と作品を見ていて思いました。
それが時を経てどうなったのか。
萎えたのか、錆びたのか、何も変わらずまだ胸の内から湧き出ているのか。

そんな「時の経過」みたいなものがテーマになっていて、松木さんの写真を見ながら、また自分の中にある「忘れてしまったこと」と「書けなかったもの」について考えました。

(松木さんの個展のことは、また別の機会にちゃんと書きたいと思います。)


最近、お酒を飲みながら昔の知人に会ったり、よく知らない女性と話したりしていると、ふと自分が忘れていた記憶が蘇ることがあります。
いまは少し時間に余裕があるから、いろいろな方法を試しながら、「忘れてしまったこと」を取り戻したいし、「書けなかったもの」を書き留めて行きたいな、と思っています。

それがいいことなのか、悪いことなのかはわからないけれど。


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