諦めかけた放課後 #43
今日は「あの選択をしたから」というテーマで話していこうと思う。
高校3年生の夏の終わり。その日は進路を決める3者面談。朝からソワソワしていた。
私は俗に言う「職業校」に在籍していた。基本的に8割の人が就職するような学校。そんな私は。2割である進学を希望していた人間だった。
高校に入学したきっかけは、単純に早く就職したいなぁという漠然とした理由だった。それ以外は特にない。
でも、ある恩師との出会いがきっかけで、目指す方向が180°変わった。いつのまにか、教員を目指していたのだ。
そしてその日はやってきた。三者面談。噂では聞いていたが、「この高校から教員になった人はほとんどいない、例外中の例外だ」ということ。この選択を選んだ自分を後悔すらしていた。
担任の先生が言った。「〇〇くんは何の教科の先生になりたいの?」すぐに返した。「体育です...」。自信なさげに言った。倍率が厳しいのはもちろん知っていたからだ。
先生は優しい先生だった。だから期待していた自分がいた。「〇〇君なら大丈夫。そこを目指して頑張ろう。〇〇大学とかどうかな?」こんな会話を。
でも、いつも優しい先生の言葉は違った。
「〇〇くん。なかなか厳しいね。難しいと思う」
「広い視野で進路を考えるのも大切だよ」
「次の面談までもう少し考えてきて」
分かってはいたものの、期待が一気に崩れ落ちた感じがした。現実を突きつけられた。
夜ご飯の味はしなかった。夜も眠れなかった。気づいたら朝だった。
でも、不思議と自分の意志は固かった。「自分で選んだんだから、自分で責任を取ればいい。挑戦しよう」
「先生ぼくはやっぱり、体育の先生になりたいです。難しいのも分かっています。でも、目指したいんです。」
想いは先生に伝わった。そして、大学が決まったのだった。
そして、今、体育の先生をしている。あのときの自分にありがとうを伝えたい。
「人生は選択の連続である」
選択=正解or不正解
こんなイメージを持つ人が多い。人は誰しも正しい選択をしたいと願う生き物だと思う。かくいう私も昔はそうだった。
でも、いまはそう思わない。
「人生は紆余曲折である」という前提があると、その選択が全てではなく、自分の目指すところの方法を選んだまでだ。それが、うまくいくかうまくいかないかは誰だってわからない。
いつだって、「自分が選んだ道を正解にする」という強い信念が大切なのだと、20歳を超えてから強く感じるようになった。つまり大袈裟に言うと、選択自体にはそれほど意味がないということ。それ以上に、その選択をした自分を信じ、その後どう行動するかが肝心なのだろう。
「とにかく飛び込んでみる」
これに尽きる。やってみて、軌道修正する。失敗も挫折も全て過程であって、それが全てではない。とにかく、やってみることでしか現状は変わらない。
この経験もあってか、私の座右の銘はアントニオ猪木さんの大好きな言葉だ。
「迷わず行けよ、行けばわかるさ」
今もいろんなことにチャレンジしている。それは正解を探しているのではなく、今やりたいからやっている。それだけだ。
あの時の選択を与えてくれた、先生と自分に感謝したい。
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