『乃木坂46のドラマトゥルギー』補遺――dTV「猿に会う」のこと
配信開始から少し時間が経ちましたが、今春に乃木坂46の4期メンバー主演で制作されたdTVのドラマ「猿に会う」について。
企画全体としては、西加奈子初期の短篇小説二篇「サムのこと」「猿に会う」を原作にしたドラマのうちの一篇です。
二つのドラマいずれにも共通するのは、原作の登場人物のどこか達観したようなマイペース感のある風情を読み替え、より切実に主人公たち(そしてアイドルたち)の人生全体を見通す射程を持っていたことでした。
それゆえ、この改変に導かれたドラマ版「サムのこと」「猿に会う」は、それぞれ異なった仕方でアイドルとして活動する人物の生を優しく、かつ批評的に捉える手ざわりになっています。二作のうち、「サムのこと」については以前寄稿した下記の記事で書きました。
原作版「サムのこと」で描かれるのは、心もとない社会的立場をどこか軽やかに生きる男女たちでしたが、ドラマ版では乃木坂46のメンバーが演じるにあたって全員女性、かつ「かつて同じアイドルグループのメンバーだった人々」という設定に置き換えられています。
これは一見すると、“アイドル”が主演するドラマだから設定を“アイドル”そのものに近づけた、というだけのことにも見えます。しかし、同ドラマが実質的に描いているのはアイドルそのものではなく、「アイドル以後」の人生です。この翻案によって同ドラマは、“人生のある時期をアイドルとして過ごした人々が、その後をいかに生きるのか”についての想像力を喚起するものになりました。そうした視野が、まさにアイドルとして生きる人々の身体を通じて表現されていたことになります。詳しくは上記リンクをみていただければと。
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さて、「猿に会う」について。
この作品は仲良しの女子大学生三人〔賀喜遥香、清宮レイ、柴田柚菜〕が日光東照宮へと旅するロードムービーですが、「サムのこと」に比べればドラマ化に際しての改変度合いはそこまで大きいものではありません。前半の舞台設定やいくつかの出来事をのぞけば、おおまかなイベントの運びは原作に準じています。
ただし、本作の比較的小さな改変事項によって、主人公たちの抱える葛藤のかたちは原作から少なからずずらされています。そして、この改変は乃木坂46の次世代メンバーたちが演じるうえで、小さくない意味をもつように思います。
原作小説では、それぞれに実家住まいの25歳、短大卒業のち時折アルバイトをしながら暮らす三人組が主人公でした。はたからみれば、学生期が終わってのちもいわゆるモラトリアム的な期間を延長しつつ生きるような風情ながら、三人はどこかしら飄々とした雰囲気をまとっています(もっとも、人生のある時期を「モラトリアム」や「自分探し」的なものとして他者が位置づけようとすること自体、よくあるステレオタイプの反復でしかなくて、往々にして当人にとってはそのとき己の目の前にある選択肢をどうにか生きているにほかならないのですが)。
対してドラマ版では、三人は大学生として描かれています。いわば、原作の三人が生きる20代半ばの日々よりも少し手前の時期、より「限られたモラトリアム」であることを社会から認められている立場だからこそ、周囲が身に着け始めるリクルートスーツや就活的なワードは彼女たちをいたずらに急き立て、却って「いつまでもこのままではいられない」こと、自分が置いていかれていることへの焦りは漠然としつつも切実なものになる。このちょっとした改変は、演者の実年齢に寄せる意味だけでなく、近い将来への焦燥や不安を否応なくかきたてる機能も果たしていたように思います。
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日常のなかについてまわるその焦りは、たとえばセクシュアルな事柄への悩みや屈託としてあらわれます。
第1話で「経験がなくて喜ばれる時代はいつまでも続かないんだよ」と語りかける蒼井きよ〔清宮レイ〕の言葉は、原作よりはるかに重く響き、物語のひとつの軸として作用しています。飯田まこ〔賀喜遥香〕は第3話で、「それってそんなに悪いことなの?」「好きでそうしてるわけじゃないんだよ」と応答しますが、原作にはないこの第3話のくだりには、身近な同年代の人々とおなじように歩むことのできない焦りやコンプレックス、やるせなさが強く滲みます。
こうした描写が切実であると同時に後味の悪さをも残すのは、主人公たちの抱える葛藤がいくぶん位相を変えつつ、まさにキャストたちの従事する「アイドル」というジャンルが抱える抑圧を想起させるためです。異性との性的な交渉を匂わせる事柄への禁忌は、かねてよりアイドルというジャンルにおいてあたかも公的な規範のようについて回り、ことさらにそのにおいが嗅ぎつけられては勝手に“醜聞”扱いされてきました。そうした理不尽があらためて問い返されることなく踏襲され、やがて破綻をきたす構図は、今日にあってもいまだ強く残存しています。
だからこそ、上記の二人の会話はドラマ版「猿に会う」のなかでも強く問いを突きつけるシーンになっています。同時に、このシーンが強い問題提起として機能しているうちは、アイドルの作り手の意識も、またそれを届けるメディアの手つきも、大勢においてさほど更新されていないということでもあるのでしょう。
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ここで重要なのは、本作で描かれるセクシュアルな事柄への葛藤や興味関心も、自身たちの身体に生じる生理現象へのケアも、着衣にまつわる雑談も、すべてはごく自然に人間としての生をいとなむ日々の断片として描写され、演じられているということです。
とりたてて性や恋愛それ自体に大仰な意味を託すための道具立てでもなく、もちろん劣情をあおる何かとしてでもなく、あくまで日常性の中に当たり前に混在しているもの。けれどもまた、当たり前にセンシティブであるべきもの――。そうしたバランスを貫徹しながら彼女たちの葛藤を描いていることこそがdTV版「猿に会う」の尊さであり、またそれゆえに「アイドル」を生きる乃木坂46のメンバーたちが演じるドラマとして批評性を帯びたものにもなっています。
地に足のついた日常性としての視野を保った作品が、実働2年目の4期メンバー主演企画として用意されたことは、俳優を育む組織としての乃木坂46にとっても大事なことであったなと思います。
(ちなみに、先にふれた二人の会話シーンの直後、三人は旅の道中でひととき行動を共にした夏目〔堀未央奈〕の行く末をTVニュースで知ることになりますが、そこで語られる夏目のディテールは、主人公たちがあるいはアイドルというジャンルが無意識に内面化する異性愛規範やパートナーシップの形を静かに相対化するものでもあります)
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余談ですが、高橋栄樹監督×乃木坂46の映像作品には、個人PV「1/24物語」(生田絵梨花主演)やペアPV「あわせカガミ」(生駒里奈・伊藤万理華主演)のように旅情を呼び起こす類のものがありまして。
特に2015年の「あわせカガミ」は、双子という設定の二人が鎌倉エリアを歩くショートドラマですが、この鎌倉行は家族の別離を目前にした二人が、共に過ごした記憶を留める最後の旅でもあり、「このままではいられない」哀切がより具体的に迫ってくる物語になっています。そのあたり含め、「猿に会う」もまた、高橋栄樹×乃木坂46が生み出す「旅情もの」の系譜に連なる作品ではないかと。
(あと、「あわせカガミ」のエンディングで使用されたクリテツ氏の楽曲が、「猿に会う」第3話の滝のシーンでも再度使用されていましたね)
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ごく自然な人間の生のいとなみ、あるいは日常性をアイドル自身のものとしていかに尊ぶか、またアイドルというジャンルが抱える旧弊をどのように問い続けるかといったテーマは、今年4月刊行の拙著『乃木坂46のドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟』でとりくんだ論点でもあり、このエントリでは補遺としてdTV版「猿に会う」を少し掘り下げました。