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乃木坂46と、静かに“成熟”を体現すること

 乃木坂46は総体として、“自然に成熟していくさま”を体現しているグループとしてあるのではないかな、みたいなことを観測半分と期待半分でここしばらく考えています。

 先日、京セラドームで開催されていた「乃木坂46 7th YEAR BIRTHDAY LIVE」もそんなことを考えながら観ていました。

 今年のバースデーライブは全4日間を使ってグループの持ち曲を全曲披露する、かつての形式を復活させています。最終日が西野七瀬さんの卒業コンサート、それに先立つ1~3日目では作品リリース順にセットリストを組むスタイルでした。

 チケットをとれたのが1日目と2日目のみだったので、必然的に「まだキャリアの浅い頃の彼女たちにあてて作られた楽曲を、円熟期を迎えた現在の彼女たちがパフォーマンスする」さまを観る時間が多くなりました。特に最初期の楽曲についていえば、まだ若くキャリア的にもビギナーな段階の、現在とは大きく違う身体の人々に充てられた作品だったのだなと確認することにもなります。

 でも、そうした最初期の作品群が、もはや今の乃木坂46にそぐわないのか、といえばそういうことではなくて。
 かつてフレッシュさの体現としてあった初期楽曲が現在の乃木坂46の身体を通して表現されると、彼女たちが演者としてとても着実に完成度を上げて今日に至っているんだなというのがよくわかる。初期曲の振付は、すごく高難度ということでもなく、手数の多さで押し切るわけでもない。それだけに、メンバーたちが以前よりもはるかに余裕を持った身のこなしで作品を表現していることがシンプルに見えてくる。

 それはアーティスト自身による時を経ての再解釈でもあるし、同時に演者がロングスパンで活動するということの可能性とか希望を示してくれるものでもあります。だから、バースデーライブって回顧や歴史のおさらいという意義以上に、人間の成熟を描いてみせるイベントでもあるんですよね。

 作品リリース順のセットリストに戻ったこともあって、キャリアを追ってそういう成熟が楽曲にも反映されていく、つまりかつての乃木坂46にだったら充てられなかっただろう作品が、近年の表題曲を飾っていることもよくわかる流れだったと思います。とくに1日目はアンコールで「シンクロニシティ」を演ったので、最初期曲と現在形との対照もしやすかった。

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 乃木坂46は年齢的にもキャリア年数的にも、少女期というよりは大人としての表現(ざっとした言い方ですけども)を手にして以降に、世の中に大々的に受け入れられるようになったグループかなと思っていて、個人的にはそこにけっこう希望を見ているんですね。

 どうしたって、ある若年期の刹那に注目が集中しがちなこのジャンルの中で、人がごく自然に成熟していくことの魅力とかライフスパンへの想像力を体現できている、といえばいいでしょうか。当たり前に成長しながら歩むさまをこそ体現してきた、そのひとつの到達点が昨年の「シンクロニシティ」という作品なのだと思います。あと、そういうライフスパンへの想像力を立ち居振る舞いのレベルで一番あらわしていたのが、かつての橋本奈々未さんという人なのかもしれない。

 なにしろ無邪気なエイジズムがいまだに幅を利かせてしまって、送り手も受け手もそういう身振りを内面化してしまいがちなのがこのジャンルなわけで、その空気をじわじわと変えていってくれないかな、と思ったりしています。

 いま書いたようなことは、乃木坂46の特徴としては認識されにくいかもしれません。作品が明快で強力なコンセプトを持っているとか、具体性の強い主張やメッセージを発しているとかとは違って、「ごく自然な成熟」は固有の特性として取り出してみせるのが難しい。

 ただ、エンパワーメントの文法っていろいろあっていいはずで、ある表現者の主体というか己の生のあり方みたいなものの発露が、常に「強さ」や問題提起や具体的なメッセージとして現れるわけではない。少しずつ人生を歩んで成熟していること、その姿をナチュラルにみせていくこと。それがトータルの表現の中でみえることもまた主体性の発露でありうるし、闘争やファイティングポーズとは違う仕方で自分たちを示すことが自然な場合だってあるはずです。

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 という話と少し通底しているような気がするのが、ライブの話から外れますが、いわゆる選抜発表の光景です。

 乃木坂46は冠番組でシングルごとの表題曲メンバーの選抜発表をしていますが、たとえばセンターなどなにがしかのポジションに選ばれるという、表面上は晴れがましいはずのことに対して、当該メンバーの反応がわりといつも、喜びではなく戸惑いというか憔悴というか覚悟というか、ともかくどうにか“状況を引き受ける”ようなふるまいに見えることが多くて。
 それは、どのポジションに選ばれたか/選ばれないかに対する反応というよりもむしろ、“選別にさらされること”そのものへの違和を率直に保ち続けているリアクションのように感じられるんです。

「競争」的なアングルは、2010年代のアイドルシーンではわりと見慣れ(てしまっ)た、基礎的な特徴のひとつになっているし、「戦場」の喩えで語られることもありました。乃木坂46もまたグループの構造上、さしあたり選別のルーティン化は不可避ではある。その構造を前提にして、メンバー自身が語りを生産しなければならないことも少なくない。

 それでも、この競争ないし選別というルーティンに対するためらいを隠さない。以前からなんとなく、これはグループ全体が持っている空気だなあと思っていて。

 このたたずまいもまた、何かに積極的にコミットする姿勢ではなく、むしろ何かに「コミットしない」「順応しない」というタイプのふるまいのあり方なので、固有の特徴として切り取ってみせるのが難しいんですけども。
 でも、これは乃木坂46というグループの、わりと強いアティテュードのひとつなのじゃないかなと。競争(の見世物化)が埋め込まれているアイドルシーンのコードに順応しないまま、アイドルとして在る。というか、競争へのコミットとは違うあり方で、己のスタンスを形成してきているのではないかと。

 そういう基調をもったグループが今最も支持されているのだとしたら、それはアイドルグループに関して現在、世の中的に何が受容されているのかということにまつわる、パラダイムの変化なのかもしれないなと思うんです。

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 自然な成熟というあたりのことに話を戻すと、上で書いたことに近い話は昨年この記事にコメントを寄せた折にもしたんですけども↓

 この記事でも触れたように、乃木坂46の自然な成熟を静かに体現してきた中心に西野七瀬さんはいるんだろうなと思っています。
 バースデーライブ最終日の西野さん卒業コンサートはネットのライブ配信で観ていたんですけど、成熟や主体性みたいなものを体現していくことって、わかりやすくストロングになることでなくてもいいし、具体的なイシューへの態度を表明することでなくてもよくて、自然に歩んできたさまの中にだって見いだせるものなんですよね。ということを西野さんの挙動を見ながら考えていました。とりわけ、当人のパーソナリティが訴求力になりやすいアイドルというジャンルだから、見いだしやすいことなのかもしれないけれど。

 アイドルに関して、パーソナリティがコンテンツになること、消費対象になることについては、しばしば忌避感が語られることもあって、私もわりとそれが気になる方なんですけれど、これってひとつには、「パーソナリティがコンテンツになる=本人の疲弊が美しく物語化されてしまう」というイメージがあるからで。まあイメージだけの話じゃなくて、疲弊が物語化されて享受されていくことはしばしばあって、それこそアイドル当人の意志や主体性の名のもとに、疲弊が美談のように肯定されていったりする。その傾向をいかにドライブさせ過ぎずに制御できるかの按配は、常にはかられないといけないよなあと思います。

 だけど、パーソナリティが享受の対象になるのって別に、すりへっている姿だから、ではないんですよね。芸能が「見られる」対象である以上、受け手から無数の物語を投影されることは不可避ではあります。だけど、その依代は明快に劇的な何かである必要はなくていいのだよな、こういうごく自然なふるまいの中にいくらでもパーソナリティを享受する喜びはあるのだよな、と卒業コンサートを見ながらぼんやり考えていました。

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 話のフェーズが全然違うんですけども、西野さんって微細な表情のうつろわせ方がとても上手い人だなと思っていて、その繊細さを活かすコンテンツを豊かに生み出せるグループに入ってよかったなあと、彼女が関わった作品群を見ながら素朴にそんなことを感じます。
 彼女の表現を「儚さ」という言葉に代表させるのはあまり好きではないんですけど、儚さに関していえば、「儚い」のではなく、「儚さ」の表現にすごく合致したパフォーマンスの資質をもっていて、それを引き出すスタッフィングとか嗅覚に優れた組織だったのだなと。

 あと今回西野さんは、実質的にもう所属を外れているけれど節目の卒業コンサートだけ現役メンバーとして登場する、というちょっと独特の立ち位置だったわけですけど、セットリスト中、登場している頻度はとても高いし公演中は確かに乃木坂46の中心者としての西野さんでありつつ、すでに半分もう別の場所に足を置いているような感があって、それはなんだかとても順調なことだと思いました。そこも含めてライフスパンへの想像力、ということでもあるので。

 近年の乃木坂46は、こうやって静かに成熟を体現できる人たちを前提にして作品が出来上がってもいるはずなので、その意味でも本格的な循環期に入っていくこれから何を見せられるかなのだろうな。

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いま執筆中の本でも、ここで書いたような視点をちょっと別の手続きで考えようとしています。はやく仕上げないとですね。

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