山上新平 "The Disintegration Loops" について
2018年の2月ごろ、もう15年以上の付き合いになるRoundabout/OUTBOUNDの小林和人さんから電話。「BACH(バッハ)の幅允孝(はば・よしたか)さんから紹介された、山上新平さんという写真家の作品がとても良いので、一度会ってみてほしい」ということだった。以前セゾンアートギャラリーのグループ展で、狂気を孕んだような漆黒の森の作品を見て以降、山上新平という名前は気になっていた。またちょうどマッチアンドカンパニー関連の企画でBACHと仕事していた時期でもあり、なんだか不思議な縁を感じた私は二つ返事で会うことを決めた。後日、POETIC SCAPEにて山上さんの作品をじっくり拝見したが、実は3枚目ぐらいを見た段階で個展を決めたことを覚えている。
話はぐっと遡り2008年。山上さんは先天性の感受性障害からくる精神疾患に襲われ、他人と会うことはおろか、人混みの中を歩くことも困難になり、ほぼ自宅に引き篭っていた。普段テレビもほとんど観ないという彼がたまたま観た番組が、選書家という職業をゼロから作りあげたブックディレクター・幅允孝に密着した『情熱大陸』だった。この番組で山上さんは「この人は紙の力を信じている」と感じ、いつか自分が健康を取り戻したら真っ先に作品を見せに行こうと決める。
それから数年後、だいぶ体調が安定してきた山上さんは、幅さんに一通の自筆の手紙を書く。5、6時間かけて書いたという手紙は、超多忙を極めていたはずの幅さんを惹きつける。「宛名からちょっとした覇気が来るというか。すごく細いペンで書かれていて、繊細で切れそうな文字で」(幅:ギャラリーでのトークより)手紙を読み終えた幅さんは「メールではなく、もうちょっと身体的感覚に近いところで対峙しないと」と感じ、手紙の最後に書かれていた山上さんの携帯番号に電話をかける。それから数週間後の大雪の日、なんとか待ち合わせ場所にたどり着いた山上さんの作品を、幅さんはその日のスケジュールを無視して3時間かけて見て、その場で4点の作品を購入することになる。
<クロストーク:山上新平x幅允孝 (2019/9/21)>
山上さんは同時期にもう一人に向けて手紙を書いている。それが「悪魔的な写真集を作る」(山上)グラフィックデザイナーであり装丁家でもある、マッチアンドカンパニー・町口覚だった。山上さんの漆黒の森の作品を観た町口さんは「光を撮れ」と山上に告げる。当時闇ばかりを撮っていた写真家にとって光はまさに真逆のモチーフ。山上さんは正直困惑したが、町口覚という山にぶつかって出た答えなら、しっかり作品に落とし込むべきだと受け止めた。
<The Disintegration Loopsより(部分)>
ある夜、山上さんは光について思索しながら歩いていた。ふと夜空の中に小さく輝く星を見て、「闇の中の光」を発見し、自分のスタンスでも光を撮れると確信する。その延長線上で生まれたのが今作「The Disintegration Loops」だった。その作品を見た町口さんは、紹介したいギャラリストとして、私も尊敬するMEMの石田さんとPOETIC SCAPE柿島の名をあげてくれたらしい。前述したように、タイミング的には小林さんから連絡が来て山上さんと会うことになるのだが、私が当代きっての目利きだと思っている人達から巡ってきた絶好のパス、これを展覧会というゴール(そしてスタートでもある)まで持っていくのが私の仕事だったのかなと、今振り返ってみて思う。
展示に到るまでの道のりが興味深く、文字数を割いてしまったが、そろそろ作品について書きたい。展示に訪れた方の多くがまず感じるのが、作品が想像していたものよりずっと小さいということ。A4のペーパーに余白をとってプリントされたイメージは実際かなり小さい。パソコンの画面で見るイメージからはサイズ感を感じにくいため、ギャラリーに展示された物質としての作品との間に落差を感じるのだろう。
もう一つ、山上さんが常に口にするキーワードに、リリースにも書いた「強度」という言葉がある。「見られることに耐える強度」にこだわる山上さんの作品をどう見せるか。私は、データー的にはもう少し大伸ばしも可能だが、そうすると大きなサイズによる「スペクタクル、迫力」が発生するのではと考えた。結果、山上さんから最初に見せられたA4のプリントをそのまま展示し、純粋に強度で勝負することにした。ギャラリーに入った時には小さいサイズで驚いた方々も、山上作品のプリントが持つ強度、密度、質量に引き寄せられていくようで、滞在時間は比較的長くなっている。
”The Disintegration Loops”の被写体は、前作の"EQUAL"などと同様に森。それもどこかの観光名所でもなく秘境でもない、自宅近くのよくある裏山だ。町口さんに「光を撮れ」と言われ始まったこの作品で山上さんは、光と同時に豊かな色彩を獲得したと思う。今回の展示で特に目を引くのが、木の幹や枝の影の部分に現れる青。あまりに存在感のあるブルーなので、デジタル加工、もしくは写真に絵の具で塗っている(立体感もあるため)のではと思う来場者も多いが、山上さんはごく普通にコントラストと明暗の調整だけを行なっている。
同時に山上さんは「でも確かにこう見えたんです」とも言っていた。そして先日、同じく森に深く潜る作品を制作している友人の写真家に展示を見てもらったところ「森の中では、実際これくらい青く見えることもある」と言っていた。科学的なところは正直わからない。しかしこれを単純な光学的な現象ではなく森の中の一つの体験と考えると、ものを見る、ものが見えるということについて考えてみたくなる。
展示会場の奥のテーブルには、一つのノートが置かれている。これは山上さんが日頃感じたことや思索を綴っているもの。このノートを来場者に見せることを提案したのは、他ならぬ山上さん自身だ。(山上さんは決して自己顕示欲が強い人間ではないし、むしろ真逆の人。なのでこのノートを他人に見せることは、彼がよく口にする言葉、「戦い」の一つなのかもしれない)私はリリースを書くにあたって一通り読んでいる。幅さんが受け取った手紙と同じ、とても細く繊細な文字で、しかし時に感情の浮き沈みを赤裸々に綴ってある「重い」ノートだ。いわゆる刺さる言葉だらけのノートだが、その中でも特に気になるメモがあった。
「真剣に眼を見開いて物事を見てきたが、今は寝起きぐらいの薄目で見たい枕に顔半分が埋まっているような」
私は幼少期から高校卒業まで剣道をやっていた。子供のころ、師であり、若い時は全国レベルの剣道家だった祖父(七段)が「目を見開いて相手の竹刀や小手ばかり見るな。薄眼でぼんやり全体を見る方が相手を捉えられる」と言っていたのを思い出した。これは通称「遠山の目付」と呼ばれるもの。剣道における目線のあり方を説いたものだが、物理的なことよりも精神的な意味が大きいとされる。山上さんのノートを読んで、もしかしたら彼は新たな境地に達しようとしているのかと思った。
前作 "EQUAL"ではタイトルの通り、森と自分が対等に対峙する感覚で撮影していた。圧倒的存在感の森を相手に、1日に一枚撮れるか撮れないかという感じで、とにかく自分を追い込み負荷をかけて撮影していた。対して ”The Disintegration Loops” は、それとは比較にならないほどの短期間で撮影できたらしい。目の前の対象を、なにか総体としてさっと捉えるように、山上さんの言葉でいうと「撫でるように」撮影できたとのこと。しかしながらどれ一つとして構図が破綻していないのは驚きだ。
「写真を撮ることは常に戦い」と語る山上さんにとって、本作も戦いであることには変わりないのだが、その戦い方は少し変化してきているのかもしれない。もしくは今後は、対峙する相手(被写体)によって、戦い方のスタイルを使い分けていくこともあるだろう。今後、山上さんは森に限らず、様々な被写体で作品を発表してゆくはずだ。(現在は人も撮っている)しかしどういう被写体と対峙する時も、山上新平の深い部分において、「闇」や「孤独」は存在し続けるのではないかと思っている。それらは取り払うべき敵ではなく、自分が想像するために必要な、愛すべき負荷として。
<台風19号が通りすぎた翌日の光>
*台風19号の臨時休業に代わり、10月20日(日)まで会期を延長します。
10月20日は13:00-18:00の営業となります。
山上新平 展|The Disintegration Loops
会期:2019年9月14日(土)− 10月20日(会期延長)
営業時間:水~土 13:00-19:00|最終日は18:00クローズ
POETIC SCAPE