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偽りのユダヤ人たち ②


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わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。自分はユダヤ人であると言う者どもが、あなたを非難していることを、わたしは知っている。実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。 あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。
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わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。 見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。 あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。 わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。 勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。
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例えばこのように、聖書に書かれている「偽りのユダヤ人たち」であるが、彼らは現代のみならず、過去におけるあらゆる時代にあっても、暗躍をくり返して来た。

そうやって、自分たちの私利私欲のために、周囲の人々にいわれなき不幸をまき散らしては、私腹を肥やし続けて来た。

彼らは、億単位の男たち、女たち、子どもたちの苦しみ、痛み、死に対して、責任を負っている。

それゆえに、

そのような彼らの結末も、また預言されている。

すなわち、自滅と破滅と全滅と永遠の裁きとがそれである。

以前にも書いたことだが、私はこのような「偽りのユダヤ人たち」の誰であるのか、よく知っている。

私に与えられた神の知恵であるところの「信仰」によって、たとえば「偽りのユダヤ人たち」が、イエス・キリストではなく、「地上のエルサレム」などをもって、「聖書の実現だ」などとまことしやかに言いふらしていること――そんな吹聴の、まったき「嘘」であることをも知っている。

それゆえに、

かつてカルメル山の頂で、世にもみじめな醜態をさらした――そして終いには殺された――数多の偽預言者たちのように、この終わりの時代の「偽りのユダヤ人たち」もまた、「地上のエルサレムにはキリストの再臨は起こらなかった」という厳然たる事実によって、「永遠の醜態」を全地と全天の前においてさらすハメになるであろう。

それが、彼らに対してなされた預言であり、彼らを待ち受ける「神の言葉」だからである。

いわく、

「不幸だ、不幸だ、大いなる都、
海に船を持つ者が皆、
この都で、高価な物を取り引きし、
豊かになったのに、
ひとときの間に荒れ果ててしまうとは。」

天よ、この都のゆえに喜べ。
聖なる者たち、使徒たち、預言者たちよ、喜べ。
神は、あなたがたのために
この都を裁かれたからである。

「偽りのユダヤ人たち」の住みかである――また、悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟であるところの――大いなる都「バビロン」は、神によって裁かれる。

だから私は、そのような「バビロン」からは、離れ去るばかりである。

「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。
その罪に加わったり、
その災いに巻き込まれたりしないようにせよ」

と、わたしの神から言われたその通りにするまでである。

強大な都「バビロン」に相対して、身命を賭して戦ってやろうと思ったこともあった。

しかし、「この戦いは神のものである」と言われたそのとおりに信ずるばかりである。

裁きも、復讐も、戦いも、神のものである。

それゆえに、

私は、大いなる都「バビロン」から離れ去り、「偽りのユダヤ人たち」の大挙をなした様子を前にしても、けっして恐れることも、おじけづくこともない。

「明日敵に向かって出て行け。主が共にいる」

と言われたとおりに、喜びと賛美の歌をもって、永遠の勝利を見届けるために、明日の朝まだき、テコアの荒れ野に向かって出て行くばかりである。

そうして、「偽りのユダヤ人」たちが――彼らはけっして一枚岩ではない――互いに戦って自滅する様子をば眺めながら、

わたしの神、イエス・キリストの「主の主であり、王の王である」ことを、知るばかりである。

「彼女がしたとおりに、
彼女に仕返しせよ、
彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。
彼女が注いだ杯に、
その倍も注いでやれ。
彼女がおごり高ぶって、
ぜいたくに暮らしていたのと、
同じだけの苦しみと悲しみを、
彼女に与えよ。」

と、わたしの神、イエス・キリストから言われたそのとおりに、すべての戦利品を奪い尽くすばかりである。

「偽りのユダヤ人たち」の上には、「神の憐れみ」はけっしてない。

「偽りのユダヤ人たち」は、イエス・キリストではなく、地上のエルサレムを選好したのだから、「神の憐れみ」などありえない。あるはずもないのである。

イエス・キリストを選ばなかったとは、「神の憐れみ」を選ばなかったということである。

「神の憐れみ」など要らないと言った者どもを、どうして神が憐れんだりするだろうか。

神が憐れまない者どもを、どうして虫けらのような「人」に過ぎない私が、憐れんだりするだろうか。

神の憐れみであるイエス・キリストを拒んで、バビロンに繋がることを自ら選んだ「偽りのユダヤ人たち」には、永遠の自滅があるばかりである。

それゆえに、

そんな者をば、どうして思い出したりすることがあろう。

そんな「偽りのユダヤ人たち」に向かって言うべきは、いつものひと言でしかない。

永遠にさようなら…!

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