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『ローマ書』所感 ②

冒頭、パウロのローマ書を書いた目的が、「異邦人伝道」であると述べた。

ユダヤ人であったところのパウロが、同胞の「ユダヤ人」に対してではなく、「異邦人」に対して、いったいどんな思いを抱きながら伝道活動をしていたのか――、それを書きたかったからだと。


ところが、この非常に文才に長けたパウロさんというお方、やっぱり「肉においては生粋のユダヤ人だった」だけあって、同胞のユダヤ人に対しても、並々ならぬ思いを抱いていたということがよく分かる。

ローマ書という手紙も佳境に至って、その「同胞への思い」をばふんだんにほとばしらせて、こうも言っている。

「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」、とか。

また、

「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」、とか…。

――言わずもがなではあるが、パウロがこんな言葉を誰に向かって述べているのかと言えば、そう、「異邦人」に向かってである。パウロなる男が、「福音の伝道」を託された「異邦人」に対して、こんな「牽制」みたいな言葉を、(ヘタくそな文章をもって)つらつらと言い連ねているのである。

それゆえに、

「ユダヤ人ごっこ」にいそしんでいる「クリスチャン」様や、「聖書ごっこ」が大好きな「内村鑑三」様なんかにとっては、こんなパウロの言葉こそは、さながら切り花のように取り上げて、掲げて見せられるものであるばかりか、彼らのトンチンカン活動のよりどころともなるのであろう。

「自分はしょせん、オリーブの木に接ぎ木された異邦人であるがゆえに、折り取られた枝に対して誇ったりしない。だからこそ、ヘブライ語で聖書を読んで、祭りを祝って・・・」とかなんとか、相も変わらずマトハズレな事を自他に言い聞かせては、「シャローム」していそうである。

ああ、なんて物分かりが悪いんだろうか。

いつもいつも、同じことを言うようであるが、そうしたければ、「どうぞご勝手に」。

いや、ガラテヤ書の中で「なお割礼を宣べ伝える者」に向かって、「自ら去勢してしまえばいい」と放言したパウロの言葉を借りて言うならば、

「そんなにユダヤ人ごっこがしたければ、いっそ国籍まで丸ごと変えたユダヤ人になってしまえ」…。


まずもって確認しておきたい事があるとしたら、

「ユダヤ人がつまずいて、かえって異邦人に救いがもたらされた」

――これは紛れもない歴史である。

そして、今なお繰り返されている歴史である、ということだ。

「ナッシュビル宣言」について書いた文章の中でも私は述べているが、

「クリスチャンがつまずき、かえってノンクリスチャンにこそ救いがもたらされるであろう」、と。

だって、現実に、この「ノンクリスチャンたる私」において、そうだったのだから。


それゆえに、

「ユダヤ人がつまずいて・・・」というに歴史においても、もっとも大切な一つ事とは、最初からずっと述べている通りである。

すなわち、

「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく ”霊” によって施された割礼こそ割礼なのだ。」

つまり、

「イエスが死者の中から復活したこと」と、「父なる神がその憐れみによってイエスを復活させたこと」とであり、

そして、

「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださる」

ということなのである。

別な言い方をすれば、

「復活したイエス」も知らず、「憐れみ深い父なる神」と出会うこともなく、その「霊」が「内に宿っている」こともないのならば、

「割礼」も「バプテスマ」も「ヘブライ語」も「祭り」も「ユダヤ人ごっこ」も…すべて、なべて、おしなべて、ヘブライ語で言うところの「へベル」な行為に過ぎないのである。

そういう「へベル」なものばかり見つめていたから「つまずいてしまった」のであり、今なお、そんな「へベル」なものばかり追い求めているから、「ああ、わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」をくりかえすハメになるのである。

『アダムとイエス』という文章の中でも、私は述べている。

アダムが土の塵から造られた時、彼は「ユダヤ人でもなく、イスラエル民族でもなかった」、と。

アダムも、アベルも、エノクも、ノアも、そして、ヨブも――彼らはみながみな、「ユダヤ人」ではなく、「ヘブライ語」をしゃべっていたかどうかも知らず、「聖書」をさえ持っていたかどうかも、誰も知らないのである。

そうでありながらも、アダムも、アベルも、エノクも、ノアも、そして、ヨブも「信仰」を持っていた。そして、最後までその「信仰」を守り通した。

それゆえに、彼らこそが「ユダヤ人」であり、「内面がユダヤ人である」ほんとうの「ユダヤ人」であったのである。


パウロはいったいどんな思いをもって、「ユダヤ人がつまずいて、かえって異邦人に救いがもたらされた」と書いたのか――。

「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」とまで言っているのだから、――まあ、「そういう思い」をもっていたのだと分かるのだが、

そんなふうに始まった、パウロの「同胞へ思い」は、こんなひと言をもって、終わっている。

「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」――。


個人的な意見だが、パウロに文才があったとは思えない。しかし、そういう筆下手な人間だったからこそ、神は「器」として選んだのだろう。まるで、その昔、口下手なモーセをリーダーとして選び、60万のイスラエルの民をして紅海の底を渡らせたように。

だから、

書きながら考え、書きながら思いをほとばしらせているパウロが、最終的にたどり着いた言葉が、

「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」

だったというのは、まことに示唆に富んでいる。

それ以上に、「インマヌエルの神」がたしかに「パウロと共にいた」ことの、証左でもある。

「弱い時こそ強い」と言ったように、「下手だからこそ巧い」というのが、パウロの文章の特徴である。

だから、多少文学をかじった者としても言えることとは、パウロの文章こそ、「もっとも下手であり、もっとも素晴らしいもの」なのである。



つづく・・・


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