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『ローマ書』所感 ③

文章がヘタくそな使徒パウロが書いた、もっとも長い手紙の一つである「ローマ書」。

ここまで書いたことをまとめれば、以下のようになる。

序盤において、

「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく ”霊” によって施された割礼こそ割礼なのです。」

という、非常に大切な一文から始め、

手紙全体のほぼ真ん中において、

「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

という、なによりも大切な言葉をしたためた。

そして、佳境に至って、

「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」

という悟りに至り、

「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」

と言って、神を誇って喜んだ。



さりながら、

パウロなる男が、そうやって手紙を書き終えたのかと言えば、そうではなかった。

むしろ文章としては、それで終わった方が良かったかもしれない。

「文学」として見た時にも、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」で終わっていた方が、「ずっと良かった」とみなされていたかもしれない。

ところが、

ここが「聖書は聖書」であって、「文学」ではないところなのだろう。

「ここから先は読者が勝手に想像して(楽しんで)ください」、というのが「文学」の終わり方だとすれば、

「それゆえに、ここから先はこうすべきであり、こう生きるべきである…」とまで言わずにいられないのが、「聖書」である、、、かもしれない。


イエス・キリストの使徒パウロは、ローマ書の終盤において、何と言ったのだろうか――?

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」

私がこの言葉を信じるとしたら、――そして、ここから先に書かれたいっさいの言葉と、ここに至るまでに書かれたすべての言葉をも信じるとしたら、

「神の憐れみによって・・・」と、はっきりと書かれたからである。

もうなんどもなんども、なんどもなんども、書いて来たことだが、「憐れみ」こそ神の名前であり、本質であり、力であり、すべてである。

「憐れみ」が無かったら、それがどんな神であったとしても、私は信じなかったに違いない。

「憐れみの神」だからこそ、自分の全人生を賭けても信じるに値する神であり、「自分の体を生けるいけにえとして捧げる」ことができる神なのである。


それでは、そういう「憐れみの神」に対して、「自分の体を生けるいけにえとして捧げる」こととは、いったいどういう行為なのだろうか?

「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」とは、どういう「礼拝」のことを言うのだろうか?

ローマ書の終盤を読んでいけば、それは「書いてある」――だからどうぞ自分で読んでください――とも言えるのだが、あえて、以下のようにくりかえしておこうと思う。

「なすべき礼拝」とは、

「バプテスマ」なんかを一番の行事にしている、「教会ごっこ」のことではない。

ヘブライ語をしゃべって、トーラーを読み込んで、定めの祭りを祝って、食べ物にも細かな規定があって・・・というような、「ユダヤ人ごっこ」なんかでもない。

内村某さんがやっていたような「聖書ごっこ」でもなく、ドストなんとかさんの好んだような「罪人ごっこ」でもない。

「ナッシュビル宣言」なんぞをぶち上げた挙句のはてに、ものの見事にみずからつまずいてみせてくれた、「クリスチャンごっこ」でも、けっしてない。

――少なくとも、私は終生、そんな「ちゃんちゃらおかしい」ご活動に参画する気など、いっさいない。

――少なくとも、ここ数ヵ月の間において、私が note に書いて来たことだけを取り上げて、「教会ごっこ」や「ユダヤ人ごっこ」のような「礼拝ごっこ」と突き比べてみたとしても、私の書いたものの方が、ずっとずっとずっと「神に喜ばれる礼拝」であると、確信している。

――だから、私は自分の行っている「なすべき礼拝」をもってしても、「穀物をこなしている牛にくつこを掛けてはいけない」という聖書の言葉通りに、「何らかの報酬」を得る資格が十分にあると、胸を張って堂々と断言できる。はっきり言って、カンチガイ「教会」にたむろしている、トンチンカン「レビ人」なんかに比べたら、はるかに「献金」を「投げ銭」してもらう価値があるというものだ。

さりながら、

――「その誉は神から来る」とパウロも言っている通りで、人からの「投げ銭」なんかに、私は何の興味もない。そんなものを得るべく「バプテスマ」なんかを施している「教会」をなぞらえるくらいなら、「死んだ方がマシ」である。


きっと、多くの人は信じないかもしれないが、

私はこういう一連の文章を、「神の憐れみ」によって書いている。

誰に信じてもらえなくても、まったく気にしないが、

私は、こういった文章を書く私の行為が、「神の憐れみ」のなせる業であることを、「私の良心も聖霊によって証ししていること」であると、知っている。

なぜならば、

『良きサマリア人』のたとえ話なんかの中で、イエスがくりかえしくりかえし、くりかえしくりかえし語り聞かせているように、「道で倒れてしまった旅人」を助けおこしたのは、「祭司でもなく、レビ人でもなく、憐れみ深いサマリア人であった」と、そう知っているから。

この世の「教会ごっこ」や「聖書ごっこ」や「ユダヤ人ごっこ」や「アーメンごっこ」なんかが、「倒れてしまった旅人」を救えない活動であることを、私は知っている。この身をもって、知っている。自分の人生をもって、それを見て、聞いて、体験して、経験してきたから。

そんなものが「なすべき礼拝」でないことは、イヤというほど、思い知らされてきたのである。


だからこそ、私は書いているのだ。

だからこそ、こんな「金にもならない」ような文章をば、来る日も来る日も、来る日も来る日も、書き続けているのである。

はっきり言って、私は「口が悪い」。(どうでもいいことだが、パウロもきっと、口が悪かったのではなかろうか…?)

しかしあえて言わせてもらえば、「憐れみ深い神」は、「口の悪い」私なんかを「器」として選んで、書かせているのである。

「口の悪い」私の言うことを、まともに聞く人がいるとすれば、それはトンチンカン「教会」の、マトハズレ「クリスチャン」なんかではけっしてない。

もし聞く人があるとすれば、そんなちゃんちゃらおかしい「共同体」に飽き足らず、あぶれてしまったような人に決まっている。

私は、そういう人にしか、興味がない。

なぜとならば、憐れみ深い神もまた、そういう人にこそ、もっとも興味があるからである。

だから、たとえ私に「道に倒れてしまった旅人」に興味が無くとも、神には非常な興味があるのである。

そのためにこそ、神は口のはなはだ悪い私という「器」なんかに、「憐れみ」を盛ったのである。

すこぶる口の悪い私なんかに、「イエスはキリストである」ことを啓示し、「憐れみ深い父」の名をば、見せつけたのである。


ローマ書を含め、たくさんの手紙を書いたパウロであるが、彼は自身を「異邦人伝道のために召された者」と、そう言っていた。

それでは私は、自分自身を何と言ったらいいのだろうか。

「倒れた旅人のための伝道に召された者」だろうか――?

そんな称号が欲しいわけではない。

いかなる称号が必要なわけでもない。

ただ、自分の今の立ち位置と、自分のなすべき礼拝を知っておくことは、大切なことである。


「お前は今どこにいるのか?」

「お前のなすべき礼拝はなんのか?」


「私は今、生きるに値する極めて良い神の国にいます。」

「倒れてしまった旅人のために、「隣人」として振る舞うことが、私のなすべき礼拝です。」


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