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余命という終幕


――
わたしが世を去るべき時はきた。 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。
――


上のような、いわば「辞世の句」とでもいうべき言葉をもって、私もまた今日この日における、私の心の中身を代弁する言葉とすることができる。

万軍の主たる「わたしの神」を御前にしても、自らを芸術家と名乗って胸を張ることのできる私ではあるが、自分なりの「辞世の句」には、興味がない。

少なくとも今日のこの日においては、まったくない。

それゆえに、

私はまだ、「わたしが世を去るべき時が来た」というふうには、信じていない。

もしもそうであるならば、私は私なりの「辞世の句」を作りたいと、そう熱望するに違いないから――それが、芸術家の芸術家たるゆえんというものである。

それに、以前にも書いたことがあるが、私はパウロなるキリストの使徒については、文章家としてさほど評価していない。

だから、そんな彼の言葉を自分の辞世の句とするには、ささいなプライドの問題として、拭いきれない違和感をそこに残すのである――といっても、それは事の本質になんの関係もなく、この文章の伏線にすらならない話でしかないが。…


「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」

『わたしは主である』という文章に書いたように、私は私の人生において、自らの身をもって「イエス・キリストの山」に登り、その頂で祈った。

その山頂の祈りのためにこそ、私はこの時代のこの場所に生まれたことを、知っている。

それゆえに、その祈りを捧げた私は、私の戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした――のである。

同様に、

『憐れみの器』という文章にも書いたように、私は私のちっぽけな、おおよそ取るに足らないような人生を生き抜いたその結果、

自分が「憐れみの器」として造り変えられたことを知った。

たとえ、貧弱にして貧相きわまりなき器にすぎずとも、「わたし」という器の中に、イエス・キリストの霊がそそがれた――満たされ、満たされ、満たされて、ついには勢いよく溢れいずるほど豊潤に。

そのようにして、憐れみ深き父なる神の憐れみは、今もなお、「わたし」という器に絶え間なくそそがれつづけ、溢れつづけている――

また、

そのような「憐れみの器」の中にこそ、「わたし」は盛られている――それが、イエス・キリストの器なのである。

それゆえに、

「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」

というイエスの言葉が、私にはよく分かる。

「永遠の命」の正体のなんであるのか、私にはよく分かる。

それがいささかの疑いもなく、「永遠に」続いていくことが、イエス・キリストの内に居る私には、よく分かるのである。


わたしは、

年端も行かぬ頃から有無を言わさずに放り込まれた、まるで生きるに値しない「荒野」にあって、私は私の戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした――とうてい生きるに値しない「荒野」にあってなお、”霊”に満たされて、この世界は「神が造った、極めて良い世界」であることを心に信じ、唇をもって言い表した。

わたしは、

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」

という言葉の示唆した、この世に生まれ落ちたその刹那から、否も応もなく向き合わされ続けた「サタンの集いに属する偽りのユダヤ人たち」との戦いもりっぱに戦いぬき、インマヌエルというキリストの名によって、打ち勝った。

わたしは、

あの日、一掬の容赦も仮借もなく滅ぼされた、「ソドムとゴモラ」の火焔の中をかいくぐり、生きながらえて、瓦礫の底をさすらい歩き、灰燼を掘り起こしながら、イエス・キリストとこの身をもってあいまみえ、命をかけて闘った――

身命を賭して闘ったその結果、「偽りのユダヤ人たち」に打ち勝ったように、イエス・キリストにも打ち勝った。

そのようにして、

わたしは、イエス・キリストの新しい名を告げ知らされて、その名を呼んだ。

イエス・キリストから、わたしの新しい名を与えられて、その名をもって呼ばれた。

わたしは、まるで新しい歌のようなその名前が、わたしだけに告げ知らされたイエスの名であることを知っている。

なぜとならば、わたしに与えられた新しい名前も、イエスが「ふたりぼっちの世界」でわたしを呼ぶ、イエスだけが知るわたしの名であるからである。

イエス・キリストが、イエスの心のひだに、わたしの名を書き記したように、

イエスは――そして、わたしは――わたしの心のひだにも、イエスの新しい名を刻み込みたかったのである。

それが、わたしがこの世にあって記憶しつづけて来た「永遠の未来」であり、

また、わたしが今もこの地上にあって生きている、「永遠の時代」なのである。


「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」

私には、パウロのこの言葉も、よく分かる。

書くことによって、書きながら生きることによって、書かされながら生きながらえさせられることによって、

ほかならぬ自分の身をもって、「キリストの苦しみの欠けたところ」をば「満たして」来たからである。

それゆえに、

わたしは、「教会に仕える者」である。

ここでわたしの言う「教会」とは、

この地上世界のみだらな、愚かな、口先ばかりの、ポーズばかりの、罪深い、汚らわしい、堕落しきった、サタンの集いに属するばかりの建物や組織や集会や集合体や共同体やのことでは、けっしてなく、

天にある「真の教会」のことであって、

わたしの国籍は天にあるように、わたしが唯一属しているのは「天にある真の教会」にほかならない。

なぜとならば、

わたしの内に永遠に住むことを決めた、わたしの神、イエス・キリストの霊が、わたしと交わっており、

また、イエス・キリストの中で、わたしたちは交わっており、

さらには、わたしたちが交わっているのは、父なる神の中であることを、

そのようにして、

わたしたちは交わり合うことで、一体となり、

互いに互いの欠けたところを満たし合っていることを、

わたしたちは知っているのである――いつも、いつでも、いつまでも。


このようにして、

私は、私の戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした――

それゆえに、

私には、今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。

もはや、この地上に、この世に、この世界のいずこにも私の戦いはなく、走るべき行程も残っていない。

――だから私はもう、いつでも、この世を、この地上を、この世界を去ってもいいのである。

今日でもいいし、明日でもいいし、一年後でも、十年後であってもいい。

私が私なりの「辞世の句」を詠もうとする時が、「この世を去るべき時」である。

それゆえに、

私は私に問いかける――

いや、私の身と心は、何事につけても「わたしの神、イエス・キリスト」にむかって問いかける――

この世界に私の戦いはなく、走るべき行程も残っていないにもかかわらず、なお生き続ける理由が、どこにあろう――

なお生き永らえる場所が、どこにあろう――と。


私はイエス・キリストに問いかけ続ける芸術家であるので、よく分かる。

それは、「余命」である。

ここで私の言う「余命」とは、おおよそ物語の中には詳しく書かれることのない、「余談」にすぎない。

いや、「余談」ですらない。

私は骨の髄までイエス・キリストを追い求め続ける芸術家であるがゆえに、よく分かる。

血を吐くようにしながら書き進めて来た物語が、いざ、おのずから幕を閉じようとするその前に、せいぜい一行か、二行の文章をもって綴られるべきもののなにかといえば、それは「想像の余地」でしかない。

父なる神も、イエス・キリストも、偉大な芸術家である。

私が実の兄弟のような親近感を抱いてきたモーセやヨブのような「人」の物語の終幕は、いずれも神によって紡がれたものである。

それゆえに、私は想像して来た――させられて来た。

モーセであれヨブであれ、その身をもってイエス・キリストにあいまみえた者が、たしかに神の憐れみによって「永遠の命」の中に葬られたことを、信仰によって私が想像し、はっきりと悟るようになるために。


それゆえに、

私は、これからの私の人生にもまた、「聖書に詳しく描かれなかった」ような「想像の余地」があることを、知っている。

それこそが、憐れみ深き父なる神の憐れみによって紡がれる、私の未来である――

わたしの神、イエス・キリストとの、この地上における最後のふたりぼっちの時代である――

そして、やがて来るべき永遠の時代へと続く影である――。

私はイエスと、ふたりぼっちで「想像の余地」を生きることだろう。

わたしたちは、かの山の頂にあって約束を交わしたように、互いの新しい名を呼び合って、過ごすことだろう。

互いにしか見せない顔を見せあって、永遠に続く笑いと、歌と、喜びの中を生きることだろう。


はっきりと言っておく。

ほかの誰でにでもなく自分自身にむかって、はっきりと言っておく。

以上のように、いささかも疑うことなく確信し、書き表すことを得た――そんな信仰と行いを、イエス・キリスト以外の誰が私に与えられたであろうか。

それゆえに、

以下を、私の「辞世」ならぬ「辞note」の言葉として、最後に書き記しておこう。

わたしが、note を去るべき時はきた。 わたしはわたしの戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。 今や、イエス・キリストとのふたりぼっちの余生が、わたしを待っているばかりである。



令和五年六月四日 
無名の小説家


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